ナイトトレインの平成・徒然草 ~心にうつるよしなしごとを書き連ねて~

《鉄道》《車》《音楽》《文学》等にまつわるよしなしごとを、つれづれなるままに書き連ねてまいります。  

鉄道での節電

東日本大震災から1ヶ月以上が経過した。輪番停電も無くなりすっかり日常生活に戻ってしまったかのように思うが、電力事情の逼迫が解消された訳ではない。業界では色んな形での節電が浸透しつつある。営業時間の短縮が照明の節約など街中では行われており。個人の家庭でも節電はされているように思える。

そんな中で、鉄道会社の節電状況を見てみたい。輪番停電の時には各鉄道会社とも徹底した間引き運転を行い支線などでは朝夕以外は完全に運休したり、本線系統でも朝夕のラッシュ以外の日中には優等列車の運転を全て止めて普通や各駅停車だけにするなど極端な節電運転をしていた。しかし、輪番停電が休止されてからは、ほぼ通常の80-90%位の運転が行われるようになり、日中でも優等列車の運転がなされて、ちょっと見には普段と同じような気になってしまう。

さて、その節電の方法で在るが、駅構内の照明を節約していて普段より暗い、また自動改札機と自動切符販売機の沢山在る駅では幾つかを使用停止にして数を少なくしている等の点は各鉄道会社共通のほうほうである。エレベーターの設置が進んで殆どの駅で見かけるが、鉄道会社によってはその対応が少し異なる。京王電鉄では上りも下りも使用停止であるが、東急電鉄では上りは使用して下りを使用停止している。あと電車内の蛍光灯の点灯も会社によって異なる、京王電鉄は昼間は原則として消灯、東急とか小田急では蛍光灯の数を間引いて点灯している。京王線は都営新宿線の乗り入れを昼間でも行うが、東急東横線では地下鉄日比谷線との乗り入れを行わない。また昼間は東急大井町線を大井町ー二子玉川での折り返しとしていて溝の口までの運転をしてない。
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小田急3000系車内で節電の為に蛍光灯が間引かれている様子です。
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  1. 2011/04/30(土) 22:33:23|
  2. 時事問題
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ANGE(アンジェ) 春の花たち

確か『枕草子』だったと思うが、「春はあけぼの・・・」という書き出しで始まる春を語った章があったと思う。
清少納言は春は”あけぼの”が良いと云っているのだが、私は、春は”新緑をバックに咲く花たち”が良いと思う。
ANGEはまさにそれを代弁するかのように、輝くばかりの新緑の中で花たちが咲き誇っていた。
私のつたない文章で表現してもしきれないので、しばし画像ですてきな春の饗宴を味わっていただければと思う。

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  1. 2011/04/29(金) 15:41:34|
  2. 季節
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京王フローラル・ガーデンANGE(アンジェ)

春の京王フローラルガーデンANGE(アンジェ)へ行ってきました。
ちょうどチューリップの開花時期でチューリップの花が咲き乱れていて、オランダのキューケンホフとは規模の点でかないませんが、珍しいチューリップの花が多数見られましたので小さいけどとても楽しむことができて大満足でした。
ちなみに、ANGEは2002年の開園で在るが、歴史は古く「東京菖蒲園」として開園し、その後「京王百花苑」と名前を変えて運営されていたが利用客の減少から1993年に閉園され、2002年に新に西洋庭園として名前も「京王フローラルガーデンANGE(アンジェ)」として再開苑された。日本一の花菖蒲園といして名をはせた日本庭園が昨今の園芸ブームにあやかり西洋式の庭園として蘇ったことは喜ばしい。菖蒲園の名残の池もそのまま残されているのは結構なことである。
お隣の京王閣競輪場は元々はレジャー施設の走りとして1927年に誕生した「京王閣」だった。園内には総大理石貼りの大浴場(ローマ風呂)、和洋食のメニューが多彩な大食堂、カフェ、各種遊戯施設(ビリヤード場など)などを完備した鉄筋3階建ての本館、また屋外には当時まだ珍しかったメリーゴーラウンド、豆汽車、ウォーターパークなど、そしてレヴューを行う演芸場を備え、その規模は東京近郊では最大を誇り、関東の宝塚と称されるほどであった。
また、駅の反対側には戦後「京王遊園」が出来て、京王閣がレジャー施設から競輪場へ変身してしまった穴埋めとして賑わった。筆者も学生時代にゴーカートに乗りに京王遊園を何度か訪れている。その後京王多摩川駅が相模原線の駅として改築される時に閉園して京王プールとテニスコートになっていたが、近年プールは廃止されて住宅分譲地になっている。

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  1. 2011/04/29(金) 09:34:06|
  2. 季節
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『明解漢和辞典』と『新幹線旅行メモ』

『明解漢和辞典』と『新幹線旅行メモ』、この二つの本に共通点があるのだがおわかりだろうか。
下の写真を良くみていただくとおわかりになると思う。

漢和辞典001A

一目瞭然ですぐおわかりになったと思うが、編著者が一緒である。中学時代に漢文の授業があり漢和辞典が必要となり購入したのが三省堂発行の長澤規矩也氏編著の『明解漢和辞典』、恐らくかなりの数の方が学生時代にこの辞典を購入しているのではないでしょうか。しかし、編著者の名前までは意識に無く使用していたのではないかと思う。かく言う私も同じでついこの間まで、『新幹線旅行メモ』の著者長澤規矩也氏と漢和辞典の編著者が同一人物であることに気が付かないでいた、
長澤規矩也氏は、この著作の前に『旅の入れぢえ』という本を出版して好評を博している。旅に際しての貴重なアドバイスやヒントに溢れた本だったようで、筆者は残念ながら『旅の入れぢえ』は所有しないが、『新幹線旅行メモ』の中にある”続旅の入れぢえ”の章からも内容を察することができた。氏は交通公社(JTB)の時刻表と弘済出版の時刻表(今は交通新聞社に版権が変わっている)には良く目を通していたようで、間違いがあると投書して指摘していた。その時大出版社の交通公社はつれない対応で、間違いもすぐ直さず指摘へのお礼の手紙もなかtたが、小出版社の弘済出版はすぐ対応するしお礼の手紙もきたと述べている。
氏は旅行の達人であることは言うまでも無く、広い意味では鉄道ファン、それも「乗り鉄」ということも言える。
また学界の著名人でもあったことが幸いして、国鉄から意見を求められることも多かったようで色々と助言・苦言をを呈していたことが著作の文面からも知ることができた。

今入手することができる旅の書物とは違った切り口・構成で書かれた本であり、既にこの世には居られない氏に望むのは無理とはわかっているが、平成にUp Dateした『旅の入れぢえ』・『新幹線旅行メモ』を読んで見たいと思う。
著名人には意外と鉄道ファンが多くて、古いところでは内田百氏の阿房列車シリーズがある。百氏は今で云う「乗り鉄」の元祖であろう。タレントのタモリ(森田一義氏)はテレビなどで積極的に鉄道物を企画している。音楽家のカシオペアのキーボーディスト向谷実氏はテレビの鉄道番組の常連でも有り、自ら事務所を作り鉄道シュミレーターの製作にも携わっている。

以下に、『新幹線旅行メモ』(昭和39年11月1日第1刷)の目次を記し参考に供することとする。

◇はしがき
◇切符の買い方
◇運賃計算法
◇新幹線の設備
◇乗り方と交通道徳
◇沿線案内
◇新幹線利用の週末旅行(1) -浜名湖と三河国定公園ー
◇新幹線利用の週末旅行(2) -東伊豆・湘南・北関東ー
◇新幹線利用の週末旅行(2) -琵琶湖と京阪ー
◇新幹線利用の新婚旅行
◇続「旅の入れぢえ」



  1. 2011/04/26(火) 08:52:48|
  2. 鉄道
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京王線の”ラッキーナンバー”と”不思議列車”

ラッキーナンバーと言えば「7」。 希望ナンバー制度でも車に「7」を付けている人を見かけることが多いし、何かの折にたまたま順番が7だったりすると今日はいいことがありそうな気になるものだ。
そんな「7」の好きなあなたに、京王が粋なはからいをしてくれた。2011年1月から京王線の7000系電車に乗る時には八王子寄りの先頭車両に注意して欲しい。
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正面左上の車号数字を見て欲しい。見事に「7」が4つ並んでいるフォーセブン「7777」だ、
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ありそうでなかった「7777」、全国の私鉄・JRに7000系・7000形・700系・700形は結構あるのだが私の知る限りでは「7777」は勿論のこと「777」さえも今までは無かった。唯一東急世田谷線(玉電)に70形の「77」があったが引退して今見ることは出来ない。
京王線に「7777」が登場したきっかけは10両編成化の強化である。小田急や東急が複々線化などで混雑緩和を図っているのに対して京王線では金のかかる複々線化ではなく車両数の増加で対処する方針にして長大編成化を進めており、その一環で8両編成として端数になって残ってしまう7000系の8連5本を組み替えて、10連3本と6+4の10連1本に組み替えて都合10連4本に仕立て直した。その時に10連用の車番に番号の変更がなされたので、今まで10連の八王子寄りの先頭車両が7775で終わっていたのが7776・7777.7778と番号が進み奇跡の車号「7777」の誕生となった次第。この結果7000系は2連・4連・6連・8連・10連の編成の組み合わせですべてが10連を組めるようになったが、ワンマン仕様の4連2本と2連2本はそれぞれ動物園線と競馬場線で1本づつ単独使用されるので、6連と8連の各1本づつは相棒の4連と2連に不足を生じるが、定期検査入場もあるので一応よしとする、
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さて、続いてご紹介するのは京王線でしか見ることのできない不思議な列車のお話である、この列車とは京王線の8000系の10両編成8014Fの事である。この編成の八王子寄りから4両目にサハ8550形8564が連結されており、中間車両なので両端に貫通扉が設けられていて隣の車両へ抜けられる筈なのが、新宿寄りの貫通扉は無くてアクリル板で塞がれている。この車両の新宿寄りにはクハ8750形8764が連結されていて運転台があるので通り抜け出来ないから塞がれているのだ。他の8000系10連ではこのサハ8550形の位置には先頭車両のクハ8700形が連結されて運転台の在る側を向かい合わせて連結している。
20100811高幡不動 001A
8000系の10連は中間に先頭車が向かい合わせに入る6連+4連の組み合わせである、下の写真が普通の6連+4連で、上の写真が変則の6連+4連。
20110422笹塚川崎 044A
8000系10連は2006年春まで京王が行っていたシーズンダイヤで高幡不動駅で特急八王子行き4連と高尾山口行き6連の分割運用の為6連+4連にする必要があった為だが、その運用が無くなった現在ではこのような変則6連+4連編成ができてもOKなのである。高幡不動駅での特急の分併合は5000系・6000系・8000系と連綿として続いてきていたのでなくなってしまったのはちょっと寂しさを感じる。車内のつり革の色の区別(緑と白)で自分の乗っている車両が八王子行きか高尾山口行きかわかるGoodIdeaも、分割が無くなった今となっては無用の長物として虚しく車内にぶら下がっているだけである。

では何故この8014Fだけ中間車が入っているのかと言うと、もともとはここには他と8000系10両編成と同じようにクハ8700形8814が入っていたのだが8000形8両編成の8028Fの新宿寄りのクハとして使われる為にクハ8814から車号変更してクハ8728として抜き取られ出ていってしまった。そしてそのクハ8814の後釜として8000形の中間車サハ8564が東急車輛で久し振りの8000形新車製造されてあてがわれたのである。8028Fの初代クハ8728は2008年8月の台風で高尾ー高尾山口のトンネルの土砂崩れに乗り上げ脱線損傷して廃車になったのでその代替としてクハ8814を持ってきて2代目クハ8728にしたである。
素人目にはそんな複雑なことをせずに廃車になったクハ8728をもう一度新車製造すれば良いのにと思うのだが、経済観念の発達した京王電鉄はコストが高くなる先頭車の新車製造を避けたのである。電車の中で比較的に安く作れる方の中間付随車サハ(モーターも運転台も無いので一番安く作れる)の新車製造を選択したのである。
実は同じようなことが過去の京王では起きていて、踏み切り事故で廃車になった先頭車を生じた5000系の編成の一つが中間車と先頭車の連結を余儀なくされて5000系が全面引退するまで活躍していた。
このサハ8564は久し振りの8000系の新車として製造された為に細かいところで既存の8000系と異なるようで、外観はほとんど同じに作られたようだが客用扉は東急の5000系と同じものになっていたり、室内も床の意匠での相違があり、8000系の異端車となっている。尚、サハ8564は2010年の1月から営業に就いている。
  1. 2011/04/25(月) 11:46:03|
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駅名考察

駅名については難読駅名が話題になったり、日本で一番長い駅名とか、日本最北端の駅とか、日本最高所の駅とか話題は尽きない。そんな中で私が疑問を持つのが安易な駅名の設定である。通常は乗換駅は同じ駅名を使う。例えば「渋谷」という駅名はJR山手線・埼京線・東急東横線・東急田園都市線・東京メトロ銀座線・半蔵門線・副都心線・京王井の頭線が使っている。すべての路線がターミナルビル内で繋がっていて乗換が可能になっているので同じ駅名が正解である。しかし、JR南武線の稲田堤駅と京王相模原線の京王稲田堤駅は一旦駅舎から出て商店街を歩いて乗り換える為に、後で作られた京王側が京王という冠をつけて京王稲田堤と称している。同じ例としては京王八王子とJR中央線の八王子駅でも見る事が出来る。もともと京王線の八王子駅は今より少し西側に位置して「東八王子」という駅名だったが、多少新宿側に路線短縮して駅が移動して駅名は「京王八王子」となった。
しかし、不思議なのは隣接して並んでいて数歩歩くとお互いの改札口があるのに、「京王永山」・「小田急永山」と称しており、何故「永山」と名づけなかったのか不思議な駅である。同じ事はお隣の「京王多摩センター」・「小田急多摩センター」駅についても言える。さらに不思議なのは京王線のもう一つ先の駅「京王堀の内」、ここは並行する小田急もなく単独の駅なのにわざわざ京王の冠をつけた駅名としているのが解せない。
東武日光・東武宇都宮・西武新宿・西武秩父・京急蒲田・京急川崎・京急鶴見・京成上野・京成成田はそれぞれ接続駅と離れているので正しい会社名冠の付け方である。面白いことに東急では会社名「東急」の冠をつけた駅がない。昔玉電が健在の折には「玉電山下」「玉電若林」「玉電松原」「玉電中里」「玉電瀬田」などがあったが玉川線<玉電)廃止の折に消滅ないし冠を取って「山下」「若林」「松原」となっている。
乗換駅なのに違う名称の駅としては、東急田園都市線の「溝の口」とJR南武線の「武蔵溝ノ口」、東急世田谷線の「山下」と小田急線「豪徳寺」、東京メトロ副都心線「雑司ヶ谷」と都電「鬼子母神」などがある。最も「雑司ヶ谷」は都電が使っていた駅名で副都心線の駅が「鬼子母神」の隣に出来る時に名前を譲り「都電雑司ヶ谷」と改名しているという珍しい経緯がある。ちなみに都電荒川線の終点は「早稲田」だが東京メトロ東西線の「早稲田」駅とはかなり離れていて乗換駅ではない。本来ならば都電「早稲田」の方が古いので東西線が敬意を表して別名となる筈なのだが、東西線も堂々と「早稲田」を名乗っている。これは東西線開通時に都電の廃止計画が有り都電全廃を見越して「早稲田」としたのではないかと推測できる。予定外に都電「荒川線」だけが生き残ってしまったので今更駅名変更もできずに、両者共に乗換できる距離の駅ではないまま同一駅名を名乗っているのであろうと邪推している。
私がこれは新記録ではないかと思う駅名群がある。それは浦和駅7変化である。
「西浦和」・「中浦和」・「北浦和」・「南浦和」・「東浦和」・「浦和」・「武蔵浦和」とよくまあ付けたものだと感心せずにはいられない。あと付けるとしたら「新浦和」駅という名称しか残ってない。うろ覚えで乗った人は「はて自分の降りる駅は南だったか東だったか西だったか、それとも何もつかない浦和だったか悩んでしまうに違いない。類は類を呼ぶとは良く言ったもので、浦和の北側では、「与野」・「与野本町」・「北与野」・「南与野」と並んでいるし、浦和の南側では、「北戸田」・「戸田」・「戸田公園」と並んでいる。このあたりは駅名が紛らわしいのが多いエリアの筆頭ではないかと思う。

武蔵野線の「北朝霞」と東武東上線の「朝霞台」、武蔵野線の「新秋津」と西武池袋線の「秋津」は乗換駅ではあるが距離の離れている乗換駅なので、別の駅名を付けたのは正しい命名である。
  1. 2011/04/24(日) 22:27:45|
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京王線笹塚駅10連対応留置線

京王線の笹塚駅での都営新宿線折り返し列車の為の留置線は10連対応が1車線のみだったが2戦共に10連対応となった。その確認の為の撮影に出かけた。どうやって10連対応になっていることを写真で表現すべくか悩んでいたところ、なんと京王の地下鉄乗り入れ用の9000系が2本同時に留置線に入ってくれるという幸運に恵まれて、無事10連が2本揃って入線している光景を撮影できた。
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地下鉄乗り入れ用9000系30番台の3本並び。左2本が留置線で折り返しの為に入線中、右が本八幡行き直通急行が本線から京王新線へ入線してくるところ。(9000系30番代はすべてが10連)

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左から留置線の都営10-300R形8連と10-000形8連、右は京王新線に入る本八幡行き直通急行の都営10-300形10連

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2010年6月から10-300形4本が中間車2両を組み入れて10連化された内の1本。前面左上に「10CARS]のステッカーを貼っているので見分けが付く。(10-460F第46編成)

  1. 2011/04/23(土) 22:51:02|
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父とコリーの写真

私の父は85歳で天寿をまっとうして既にこの世にはいない。年の過ぎるのは早くて、すでに他界して5年が過ぎようとしている。
父は成功した商売人で、タバコ店兼文房具店を経営していたがタバコの売上は目黒区でNo.1だったそうである。そんな父が商売以上に熱意を持って取り組んでいたのがコリーだった。父がコリーに凝るきっかけとなったは実は私で、その昔「名犬リンチンチン」というTV番組がありシェパード犬が活躍していた。また少年に人気のあったTV番組「少年ジェット」でもシェーンというシェパード犬が活躍していて、私も犬が飼いたいと父にねだってシェパードを買ってもらった.
念願かなって喜び一杯で「パック」と名づけて可愛がったのは当然であるが、散歩に餌やりに犬小屋(大工さんに作ってもらった立派な建物だった)掃除に一所懸命頑張った。しかし数年後に散歩の折に口にした食べ物が悪かったのかアッと言う間もなく死んでしまい、泣いて悲しんでいた私を見かねて今度は当時やはりテレビ(「名犬ラッシー」)などでブームだったコリー犬を父が買ってきてくれた。ところがミイラ取りがミイラになったのか、いつの間にかコーリーは父のものになり、父の長いコリー遍歴が始まった。最初はJKCという日本で一番大きな犬の団体の展覧会に出陳していたが、ほどなくJCC(Japan Collie Club)の方に移り、そちらでチャンピオン犬を作る事に熱中し出した。JKCはお金で賞を買えると言われて鞍替えしてJCCは実力でしかチャンピオンが取れないのだと父から聞かされたが、真相は不明。JCCは皇室の宮様を名誉会長にしておりサロンの雰囲気もあったのが父にはくすぐられるところがあったのではないかと邪推してみた。JCCの会員になってからの父は、持てる時間とお金をほとんどコリーの為に費やしたといっても良い、安くはない子犬を次から次へと購入したり、アメリカからチャンピオン犬を高級自動車が買える様な値段で購入したりと、その入れ込み様は半端ではなかった。犬や犬小屋や餌にお金をかけるだけではなく、日本中の展覧会にコリーを連れていくので、私は一番遠いところでは京都まで車を運転して行かされた。近隣の栃木・茨城・群馬・千葉・神奈川・埼玉は当然のこともう一範囲広げて長野・静岡・福島・新潟までも展覧会のテリトリーだった。さすが北海道や九州は車では行けないので車で羽田まで運び飛行機で遠隔地へ飛び現地では犬仲間に協力してもらい展覧会に出陳していた。春と秋には毎週のようにどこかで展覧会が開催されていてそのほとんどに出陳していたので、その経費は結構なものだったと思う。普通のサラリーマンではお金の点で無理があるようで、会社の役員クラスの人とかお医者さんや自営業の人がJCCの会員だったと思う。
 チャンピオン犬を最初に作った時の父の喜びようは大変なもので、JCCの会誌である『Collie Fancy』の表紙にチャンピオンになった犬の写真を載せる事になり、私に撮影のリクエストが来た。写真は近くの駒沢公園で撮る事になり、愛機のニコンFにエクタクロームを詰めて出かけた。印刷原稿ということでエクタクロームをチョイスしたがASA(ISO)64という低感度フィルムなので天候が気になったが幸い晴天だったので無事撮影ができた。色んな角度で撮影したが、あまり撮らない顔のUPの写真も何枚か撮った。あとで仕上がった写真を見て、父が顔のUPが一番いいと選んで、これを編集部に提出した、嬉しいことに編集部でもこの写真の評判が良くて『Collie Fancy』誌上でも記録に残るいい写真の表紙になったと云う望外の評価をいただいた。父は自慢の犬のみならず、写真までが良い評価だったことがよほど嬉しかったのか、この写真を大きく伸ばして額に入れて飾っていたし、写真が掲載された号を複数追加注文して知人や親戚に配っていた。
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以下は、会誌に掲載された表紙裏の「表紙犬説明」である。

 まずはじめにブリーダーS(父の事)さんのことを語らねばならない。同氏は非常に長い間、コリーを愛好し、飼育し、展覧会に出しては満足した結果を得られず、また、これはと思う子犬を購入してはものにならず、それでもうまずたゆまず、クラブのメンバーとして愛育してきた。稀に見る熱心な方である。
 そのSさんが自分の愛犬を使って繁殖に踏み切り、このような成果を揚げたことは、長くやっている人は必ず報いられる・・・という言葉が本当であったとつくづく思うのである。
 Kさんに渡された子犬は、Sさんの愛情を分けて飼育され、日々の注意、出陳の用意、それこそ日頃の経験と、Kさんの熱意が、長い間この犬にそそがれた。
 40年春、出陳された時は、それでもまだどこか弱々しい美しい犬であったが、お二人とも、その犬質を疑わず、必ずものにする気構えで訓育を行い、城南展のRWD、福島展のWDは、その成果とともに、本犬が順調に成長しつつあったことを物語るもので、その後は調子を見ながら、たくましくなったMORALIZERを人犬一体となって仕上げていった熱意を、今更ながら敬服したい。
 コリーをCH(チャンピオン)に仕上げることは、その道程において、尊い経験と、クラブメンバーとしての本当の意義をもたらすものでなくてはならない。お二人はこれを味わって今、CHの栄誉を担ったのである。

ーーーーーー中略ーーーーーーーーーーー

 私は今、長い間苦労してきたメンバーが報われたよろこびに浸っているのを、他人事以上に、うれしく思うものの一人である。
(文責:編集部)

 父は、その後もCH犬を輩出し、CHの上のグランドCHも輩出している。しかし上記のようにそれまでは展覧会に出してはダメを続けてきた雌伏の軌間が長かっただけに、この時の喜びの大きさは比較にならないものだったに違いないと思っている。そして、最初のCHを自分で所有せず、父を慕って付いてきた仲間の若い人に持たせたのも父らしいことだったと思っている。子犬の段階でCHになる素質があるかどうかの見極める術を長年の経験で身に着けていたはずの父が敢えて成長株と判断した子犬をK氏に託した。自分でCH犬を未だ持った事がないのに、まず先に若い同好の士にCHを持つ喜びを味あわせてあげたいと思った事が、父の”らしい”ところだったのだと、私は思うのである。
  1. 2011/04/23(土) 19:22:17|
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古書 『日本案内記・関東編』

日本案内記001A

古書好き・旅好き・地図好きの私が神保町の古書店で見つけた本『日本案内記・関東編』をご紹介させていただく事としたい。この本を入手したのは今から15年以上前の事である。古書好きの私は神保町の古書店を散策して色々と本を漁るのを無上の楽しみとしている。いつものように古書店めぐりをしていて、『日本案内記』の表題に惹かれて手に取り、いい感じにやれている装丁に好印象を持ち、これはいい本かも知れないと直感した。早速にページをめくると東京市内の詳細地図などが綺麗に印刷されたページが目に入った。昭和初期の東京市内の様子が詳細にわかるすばらしい地図で、これだけでも掘り出し物との判断が下せる。ページをさらにめくると、次から次へと関東周辺の貴重な地図が展開され、周辺都市(静岡・甲府など)の詳細な市内地図もある。思わず顔がほころんでくるのがわかる、これは絶対手に入れるべき本で、私に買って欲しいと本も言っているかのごとく感じた私は、即行でレジへ向かい購入とあいなった。
日本案内記002A
この本は表紙をめくると「日本案内記・関東編 鉄道省」とあり鉄道省の監修で発行された本と判断できた。
奥付には以下のような記述が見えた。

日本案内記・関東編 鉄道省 正価2円50銭
翻刻発行者:株式会社 博文館
発売元: 株式会社 博文館
     日本旅行協会
昭和5年3月8日発行
昭和5年4月22日25版発行

装丁はかなりくたびれた様子であったが、中味は意外としっかりしていてページの汚損や破損もほとんどなく紙の劣化も進んでおらず、十分判読可能な本であった。地図に惹かれて購入した本であるが、仔細に読み進むうちに内容もすばらしく資料的な価値の高い本であることもわかってきた。概説の中に関東地方の桑畑と水田の分布図もあり、当時の状況を知る良い資料となっている。また関東地方の方言についても解説されている。慶應2年現在での関東地方における各く大名の名前と石高の一覧もある。実に多彩かつ多岐にわたる案内書である。

そして、東京市及び近郊の案内の中では1月~12月の年中行事の一覧もあり、官公庁・学校・図書館・銀行・信託会社・会社・工場・新聞社・会館・倶楽部・公園・著名ビル・活動常設館・寄席・百貨店・ホテル・旅館・日本料理店・西洋料理店・支那料理店・菓子パン果物店などの名前が掲載されているページがあり、大変興味深い名前を発見したりできる。東京南部の地図には幻の都電路線である天現寺橋ー恵比寿長者丸の路線もしっかりと印刷されていて貴重な資料であることがわかった。
日本案内記004A
関東地方の地図では上越線が未だ全通しておらず水上ー越後湯沢の間が結ばれてない。ここはご存知の難関でループ線と有名な清水トンネルの開通を待って全通となったところである。同じ事は東海道線にも言える。丹那トンネルが未開通で線路は熱海ー小田原の支線として描かれていて、東海道の本線は御殿場を回る線路(現在の御殿場線)として描かれている。御殿場線を通る時に注意しているとあらゆる場面で東海道本線だった遺構を発見できる。複線分の線路跡とか鉄橋・トンネル、そしてローカル線とは思えない規模の駅構内やホームの長さなどで本線だった時代を偲ぶ事ができる。
日本案内記003A

  1. 2011/04/21(木) 20:51:58|
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新宿御苑(その1) 江友会写真クラブ「写真展」

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「新宿御苑」は環境省の管轄下に在る3つの国民公園(他の2つは皇居外苑と京都外苑)の一つで、広さは58.3ヘクタール。新宿御苑として開園されたのは1906年5月で、2006年に開園100周年を迎えている。
歴史を遡ると、江戸時代は信濃高遠藩内藤家下屋敷のあったところで、その後1879年に皇室の御料地「新宿植物御苑」となり、1906年に「新宿御苑」と名称が変わっている。開園以来宮内庁(省)の管理下にあったが、一般に御苑が開放されたのは戦後のことである。

実は、私の所属する写真サークル(江友会写真クラブ)が来年2012年3月13日(水)~3月18日(日)に新宿御苑インフォメーションセンター・アートギャラリーを借りて単独の「写真展」を開催することが決まり、これから写真展を目指して写真を撮っていくことになったのである。

写真展のテーマは「新宿御苑・心の自然」で、副題として「新宿御苑の自然と人との触れ合いを観察し撮影することで、新宿御苑の普及啓発をはかる」となっている。

大変難しくもあり、やりがいのあるテーマで、これから一年かけて新宿御苑へ足を運び、新宿御苑を観察しながら撮影して行く事になった。まず手始めに4月17日(日曜日)に会員諸氏と新宿御苑を訪れて桜のお花見で満員の新宿御苑での撮影をおこなってきたので、その中からいくつか写真をお目にかけることとする。

これからも月に2回位のペースで新宿御苑を訪れて撮影をする予定なので、随時シリーズでその成果を報告させていただく予定にしている。
新宿御苑003A
このパンフレットからもわかるように、新宿御苑には沢山の種類の桜がある為に、ソメイヨシノが満開を過ぎても他の種類の桜が競い合うように咲き誇っていて、実に多くの桜の花を楽しむことができた。
20110417新宿御苑 002A
20110417新宿御苑 008A
20110417新宿御苑 015A
20110417新宿御苑 024A
20110417新宿御苑 043A
20110417新宿御苑 068A
20110417新宿御苑 069A
20110417新宿御苑 079A
20110417新宿御苑 047A
20110417新宿御苑 057A
20110417新宿御苑 066A
20110417新宿御苑 072A
20110417新宿御苑 061A
  1. 2011/04/21(木) 15:58:47|
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私の車遍歴(2) トヨタ・コロナマークⅡ

20110420調布自宅 005A
順序からすれば第一番目に登場すべき車だったが、自分で撮った写真の中で良いものが見つからずUPする写真に手間取ってしまい出遅れてしまいました。結局自分の撮った写真の中からはお見せできるものが無くてカタログからのコピーでお茶を濁すことになってしまいました。
トヨタの「コロナマークⅡ・1600ハードトップSL」(車輌形式:RT70-S)というのが私が初めて自家用車として乗った車である。もちろん私がお金を出して買った車ではなくて父の所有物である。ありがたいことに父の車であったが父が自動車免許書を持たなかったので、父の用事で運転する時以外は私が自由に使っていた。
浅田次郎の小説でドラ息子どもが親から買い与えられた車を自由に乗り回すくだりがあるが、結果的には私もそれに似た状況であった。
とにかくハードトップの流麗なスタイルが売りの車で、乗っていてもそれが自慢の種で、街中でショーウインドーに映るわが車を眺めて悦に入っていたのは今思えば赤面の至りだった。このマークⅡシリーズのトップモデルは1900ccのエンジンを積む1900SLで、私の1600SLは1600ccのエンジンなので、出力/トルクでも最高速度でもゼロヨン加速でも1900の後塵を拝していた。
お金を出したのは父なのでマークⅡは父親のチョイスであった、自分の金で買った車ではないので言えた義理ではないが、もし私が選ぶことが出来たならスバル1000あたりっを選んでいたようなような気がする。しかし、マークⅡはスタイルの良い車であり、名称にSLとあるのも私の鉄へのこだわりとからんで気に入っていた。SLに乗ってSLの写真を撮りに行くというしゃれが利いていた。
この車はSUツインキャブで、このツインキャブの調整が大変だった。もちろん私には調整技術は無く整備できないので、東京トヨタの雪ヶ谷工場にお世話になっていた。キャブの調整は年に最低でも1回以上は必要で、いつも最高のコンデションを保つには2-3ヵ月毎の調整が必要で、私の場合には年に複数回は調整に出していたような気がする。
当時ラリーが流行っていて、マーシャルのフォグランプをつけてラリー車を気取って、ダブルクラッチの練習をする目的で車が少なくて広いスペースがある本牧埠頭へ通ったり、ダートでの横滑りのカウンターステアーの練習と称して村山貯水池の外周道路(当時は道幅が在る砂利道だったので滑り易く練習には格好の道だった)へも行ったりした。一度外周道路の道幅が狭い部分でコントロールを失い危うく貯水池に転落しそうになったことがあった。ブレーキは前輪がディスクであったが、サーボが強すぎる典型的なカックンブレーキで、友人のサーボのないスバル1000スポーツのブレーキの効きと大違いで友人の車に乗り換える度にブレーキに馴れるのに一苦労させられたのも懐かしい思い出である。
この車では色んなところへドライブに行っている。ある時友人達と夜に出発して九十九里浜を目指したことがある。予想外に早く着いてしまい浜に乗り入れてそこで車中仮眠泊とあいなった、着いた時には真っ暗で気づかなかったが、完全に砂浜の奥深くまで乗り入れて止まっていたようで、朝起きたら車の近くまで波が押し寄せているのにはびっくりだった。九十九里の砂浜は砂が固く締まっていたせいかスタックもせず、無事浜からでることが出来たのはラッキーだった。名前に誘われた訳でもないが、1600SLで八高線のSL撮影に行き、八高線に並行する県道が適度な砂利道で*エリック・カールソンを気取ってラリー気分で飛ばしたりもして正に青春時代だった。
今のマークⅡ(X)でも変わらないが、マークⅡは典型的なおじさん車なので、運転する楽しさには欠けるところがあって、たまに運転させてもらった友人のカローラスプリンターやスバル1000スポーツがうらやましかったことを思い出す。

脚注*:エリック・カールソンは”ラリーの神様”と言われたSAABの専属ドライバー。1960年代に世界のラリーの大レース(サファリ・モンテカルロ・ソフィア・リエージュなど)で常に上位に入賞して大活躍していた。
1962年・1963年と続けてサーブ96を駆ってモンテカルロラリーで連続優勝している。ちなみに、彼の奥さんのパット・モス・カールソン(1950年代にF1レースで活躍して無冠の帝王と言われたスターリング・モスの妹)も女流ラリードライバーとして名を馳せていた。
当時、私はサーブ96にぞっこんで、街中で滅多に見ないサーブ96を見かけると見境無くその後をついて走ってしまい、きっとサーブ96のオーナーからは気持ち悪がられたものと思う。買いもしないのに世田谷区桜新町の246沿いにあった西武自動車には良く通って、サーブ99や900のカタログをいただいたり試乗をさせていただいた。西武自動車に輸入代理権が移ってからはサーブ96は輸入されてなかったので、ますます96が恋しくてならなかったことを思い出す。
  1. 2011/04/20(水) 23:50:37|
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お礼&お知らせ

ブログ立上から3週間が経ちました。多くの方々に私のブログを訪問いただきありがたいお言葉なども頂戴致しました、改めまして御礼をもうしあげます。ありがとうごじました。

内容のデザインもまだまだのところが多くて日々何とかしなくてはいけないと思ってはいるのですが、まずはコンテンツということで追われており、果たせておりません。

さて、私のブログにお立ち寄りいただく方の中には老眼鏡をご使用になられる方が少なからずいらっしゃることは承知しておりまして、その方々にとっては活字のポイント数が小さくて読みづらい思いをさせているのではないかと気になっております。一時期本文の活字だけを大中小で変更できることから中にしてUPしたことがありました。しかし本文のみを大きくすると他の部分とアンバランスになってしまうことが嫌で元のサイズへと戻してしまいました。いずれHDMLをちゃんと勉強して全体を見やすく修正したいとは思っているのですが、時間がかかりますのでしばらくはご勘弁いただきたく思います。

さて、既にご存知で実行していらっしゃる方もおいでと思いますが、ブログに限らずインターネットの画面に置いて全体を拡大する事ができます。段階的に大きく出来ますが、私は1段階ないし段階くらいの拡大をお薦めします。
方法はコントロールキー(Ctrl)を押しながらプラス(+)キーを押しますと、1回押すごとに1段階づつ大きくなります。逆に小さくするにはコントロールキーを押しながらマイナス(-)キーを押します。同じ事はマウスを使っても出来ます。コントロールキーを押しながらマウス中央のホイールを向こう側に回すと大きく、手前側に回すtと小さくなります。

本来は私の方でちゃんと対応しなくてはいけないことなのですが、暫くは上記の方法で緊急回避していただけましたら幸いです。

これからもまだまだ色々なネタをアップしてまいりますので、「平成・徒然草」宜しくお付き合いいただけますようお願い申し上げます。

、「平成・徒然草」編・著者: ナイトトレイン999
  1. 2011/04/18(月) 14:54:20|
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都営新宿線の車輌・4変化

都営地下鉄・新宿線は日本で唯一の軌間1372mmの地下鉄として希少な存在で在るが、車輌編成の形態の多彩さでも希少である。ついこの間までは新宿線には10-000形の試作車・量産1次・量産2次のグループ(セミステンレスで客室2段窓)が残っていたが、廃車となり今は見る事ができない。現在運行している編成は形態・機能面で以下の4つのグループに分類することが出来る。

(1)10-000形3次~7次グループ
このグループはオールステンレスで客室は1段窓。腰周りにコルゲートを巻いている。制御機は電機子チョッパ制御。ラインカラーの黄緑帯は細いタイプ。 このグループは都合8編成。

(2)10-000形8次グループ
オールステンレスで客室は1段窓だが、コルゲートからビードプレスに変わっている。制御機はGTOサイリスタチョッパ制御。ラインカラーの黄緑帯は細いタイプ。先頭車正面の黄緑帯の下に細い青帯が追加されている。先頭車の正面デザインがそれまでの10-000形と異なるデザインとなっている。 このグループは都合2編成。

(3)10-300R形グループ
先頭s車のみ10-300形の新製車輌で、中間車は10-000形からの更新改造車。従って先頭車はビードプレスもコルゲートも無いが中間車はコルゲートとなっており編成の統一感に欠ける。ラインカラーの黄緑帯は細いタイプ。追加の青帯は無い。このグループは都合6編成。

(4)10-300形グループ
オールステンレスでビードプレス無し。ラインカラーの黄緑帯は太いタイプでその下に細い青帯が追加されている。制御機は新宿線初のVVVFインバータ制御。D-ATC化によってやっと新宿線にもVVVFの電車が導入されることになった、このグループは都合12編成で新宿線のNo.1ぼ大所帯。

以上の各グループを以下の写真で紹介していく、

20110414笹塚聖ヶ丘 021A
10-000形3次車の最古参編成。10-190F(第19編成) 第1~第18編成は廃車されて既に無い。

DSC_1245A.jpg
10-000形8次車。10-280F(第28編成) 8次車は第27編成と第28編成の2編成のみの希少車。

DSC_1134A.jpg
10-300R形。 10-350F(第35編成) 先頭車と2両目以降の中間車との違いと先頭車の黄緑帯の細さに注目。
20110414笹塚聖ヶ丘 035A
左側が10-300R形(10-310F) 右側が10-300形(10-440F) この写真の方が2両目以降のコルゲートが良くわかる。
20110414笹塚聖ヶ丘 005A
左側が10-300形(10-440F)第44編成。右側は10-000形(10-220F)第22編成。
  1. 2011/04/18(月) 12:34:49|
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引退した都電7500型

3月11日の東日本大震災の為に3月13日の引退行事が中止になり、ひっそりと消えて行った都電7500型。
引退のお別れヘッドマークを付けた7500型を撮影しておりますので、その最後の活躍の様子をお目にかけたいと思います。
20110309都営荒川線 015A
荒川車庫前に停車中の7511(阪堺カラー)
20110309都営荒川線 047A
荒川車庫前~梶原の7512
20110309都営荒川線 242A
面影橋~学習院下の7512
20110309都営荒川線 108A
飛鳥山~王子駅前の7511(阪堺カラー)
20110309都営荒川線 239A
面影橋~学習院下の7512
  1. 2011/04/16(土) 22:30:50|
  2. 鉄道
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10年前の鉄道風景(1) JR高山線・美濃太田駅

10年ひと昔とは良く言ったもので、ついこの間のように思っていた事が10年も前のことだったのだと気づかされて唖然となる事が多いのではないだろうか。そんな10年くらい前の過去帳入りした鉄道の風景を思い出しながらご紹介していくのがこのシリーズである。

さて、第1回目は美濃太田駅で毎日繰り広げられていた、名鉄からの乗り入れ特急「北アルプス」とJR特急「ワイドビューひだ」の連結風景を2001年4月30日に訪問して撮影した時の記録写真である。実は、私は当時仕事で美濃太田まで行く事が結構頻繁にあり、新幹線で名古屋に着いた後名鉄新名古屋駅で特急「北アルプス」に乗り換えて美濃太田まで行くのを常にしていた。そして、ある時に「北アルプス」到着後に「ワイドビューひだ」が後ろから来て連結されるものと思っていたのが間違いであった事を知り、実際は「ワイドビューひだ」の方が先に到着していて一旦引き上げ線に後退してホームを空けて「北アルプス」到着を待ち、再度ホームに入線して「北アルプス」の後ろに連結されるという大変手間な行程を踏んでいることがわかり、その光景を写真に記録しておきたいと思った。
しかし、この手間のかかる美濃太田駅での一連の連結の為の入れ換え作業を記録する為には先発の「ワイドビューひだ」で美濃太田に着いて「北アルプス」の到着を待つ必要があり、いつものように「北アルプス」で行ったのでは第二幕目からの撮影しか出来ないことも知っていた。
そして2001年9月に名鉄が直通乗り入れ「北アルプス」を廃止するというニュースを聞いて、美濃太田駅での入れ換え連結風景を撮影するべく先行するJR特急「ワイドビューひだ」の客となった。JR名古屋駅ホームへ上がり入線していたキハ85系で組成される「ワイドビューひだ」に乗って驚いた。なんという事か座席は全てこれから向かう岐阜方向と逆を向いている。これはJRのミスではなく、東海道線の岐阜駅で折り返して高山線に入ると座席が正しく進行方向となるように最初から座席を運転区間が長い高山線にあわせて設定していただけのことである。さて「ワイドビューひだ」が美濃太田駅に着いて下車すると間もなくドアーを締めて岐阜方面の引き上げ線にバックしていく。そこへ鵜沼から高山線に乗り入れて「ワイドビューひだ」の後ろを追っかけて来ていた名鉄の「北アルプス」が入線してホームの前寄り(富山寄)まで行って止まる。そして、一旦客扱いして後にドアーを締めて引き上げ線から入線してくる「ワイドビューひだ」を待つ。「北アルプス」の後部に岐阜方面から再度入線してくる「ワイドビューひだ」が連結されて、ここからは高山まで「北アルプス」+「ワイドビューひだ」が一つの列車になって運転される。鵜沼駅で名鉄からJRへの短絡線を使って「北アルプス」が入選するのだが、短絡線が駅手前ではなくて駅構内からはずれた富山寄りに在るために鵜沼では運転士交代が出来ず、名鉄の運転士がJR美濃太田駅まで運転してくると言う珍しい光景も「北アルプス」の廃止と共に見る事が出来なくなった。
名鉄の鵜沼でのJR高山線への乗り入れは、遡ること1932年から始まり、戦後一時期休止していたが1965年に名鉄が特急並みの客室設備を持つ乗り入れ専用ディーゼル車輌キハ8000系を新製して準急「たかやま」として神宮前ー高山で運行され、その後急行・特急と出世魚のように昇格して、1970年富山地方鉄道・立山まで乗り入れるようになる時に愛称も特急「北アルプス」に変更された。その後運転区間が神宮前ー富山、神宮前ー高山と段階的に短縮されたが、愛称の「北アルプス」は変わることなく2001年の9月に直通運転の幕を閉じた。
併結されるJR特急「ワイドビューひだ」に使用されるJRキハ85系に性能をあわせて進化するべく、1991年「北アルプス」用に名鉄キハ8500系が新製されて昔のJRキハ58系の性能に合わせて作られていた名鉄キハ8000系を置き換えている。せっかくの新鋭キハ8500系ではあったが「北アルプス」の廃止により働き場所がなくなってしまったものの、車齢も10年くらいで比較的若かった為に名鉄から会津鉄道に譲渡されて昨年までは元気で会津鉄道線で活躍していた。しかし、連続高速運転が得意の8500系はローカル鉄道の運転形態に合わなかったようで寿命を縮めてしまい、昨年秋に予想外に早い老朽化を理由に惜しくも引退してしまった。
20010430美濃太田001A
美濃太田到着後に岐阜寄りの引き上げ線に後退していくキハ86系「ワイドビューびだ」
20010430美濃太田005A
奥の引き上げ線にいるキハ85系「ワイドビューひだ」の横を抜けてホームに進入してくるキハ8500系「北アルプス」
20010430美濃太田008A
ホームの前寄りまで行き停車してキハ85系「ワイドビューひだ」を待つ「北アルプス」
20010430美濃太田009A
連結後、「ワイドビューひだ」(85系)+「北アルプス」(8500系)は手に手を取り合って高山へ向けて元気に美濃太田駅から旅立っていった。






20010430美濃太田005A20010430美濃太田005A


  1. 2011/04/16(土) 16:55:57|
  2. 10年前の鉄道風景
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桜前線~ご近所~

ソメイヨシノは先週末がピークで、今では花びらが歩道を敷き詰めている。
色々と多摩ニュータウンの桜めぐりをしてきたが、我家のご近所に咲く桜を紹介して締めくくりとしたい。
歩いていける範囲に桜で有名な「都立桜ヶ丘公園」があるが、今回ご紹介するのはもっと自宅に近いところに在るご近所桜たちである。今までご紹介して来た桜のように桜並木であったり群生していたり巨木であったりという豪華絢爛たる存在ではないが、それぞれ1本1本が密やかに春の訪れを主張している。
3年ほど前に浅草の隅田川土手の桜並木を鑑賞した帰りに、桜餅の元祖と言われている長命寺の桜餅をお土産に買って帰ったことを思い出した。桜餅の葉には白い花をつけるオオシマサクラの葉が用いられるそうであるが、多摩ニュータウンにもオオシマサクラは満開で、白い花の桜を見るたびに長命寺の桜餅を想い出してしまう私は「花より団子」の典型であることだけは間違いない。
20110414笹塚聖ヶ丘 060
20110414笹塚聖ヶ丘 070
20110414笹塚聖ヶ丘 082
20110414笹塚聖ヶ丘 084
  1. 2011/04/15(金) 22:33:16|
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JTB携帯時刻表休刊

昭和25年の創刊以来発行されて来たJTBの携帯サイズの時刻表が4月号を持って休刊となる。
最終号の4月号には、第62巻第4号通巻727号の表記がある、対抗誌である交通新聞社発行の『小型全国時刻表』にはそのような表示も無く今後も発行されるようである。これはインターネットの普及に伴い活字出版物の衰退の一つの表れと捕らえるべきなのか? 私には評価するデーターの持ち合わせがない。
いずれ大判時刻表も消えていくという兆しと捉えるべきだとしたら、私にとってはショッキングな出来事ということになる。JTBは一時期『JTB私鉄時刻表(東日本版・西日本版)』を出したりして時刻表には意欲的だと感じていたのだが、いつの間にか『私鉄時刻表』も2009年版以降発行更新されてないようであり、今回の休刊が何を意味するのか大いに気になる次第。
休刊号の表紙のまっすぐに伸びる線路の象徴するものは何なのか?これも大変気になるメッセージである。JTB携帯時刻表001A
4月号のNEWSページに在る、休刊のお知らせを下記に転載致します。

『JTB携帯時刻表』につきましては、諸般の事情により今号(4月号)をもって休刊することとなりました。昭和25年の創刊以来、長きにわたりご愛顧賜りました読者の皆様、並びにご支援ご協力をいただきました関係各位の皆様に厚くお礼を申し上げます

できることならば、休刊の言葉通り休んで後、いつの日にか復刊して我々の前に姿をまた見せて欲しいものだ。
  1. 2011/04/14(木) 23:06:56|
  2. 鉄道
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浅田次郎とO.Henry(オー・ヘンリー)

浅田次郎とO.Henry(オー・ヘンリー)、ともに共通点がある作家である。
人生の機微を巧みに描く作家で短編小説の名手であると思う。人生の機微を巧みに描く点では共通しているが、描き方が微妙に異なる。浅田は情や魂<幽霊や心霊)などに依った作品が多いし、オー・ヘンリーの作品にはironyとか辛口のespritの要素がある。また共に波乱万丈の人生を経て作家になっている点でも似ているし、その事が作品を書く上でも影を落としているのではないかと感じる。二人共に裕福な家庭に生まれながら没落をして地獄を味わい、刑務所暮らしをしたり、危ない世界に居たりしている。
人間、大小の差はあれども、何らかの悩みを抱えて生きており、何にも問題なくすべてパーフェクトの人はいないのではないかと思う。二人の短編の中に共感できる何かを感じるのは、私もご多分に漏れず悩みを抱えて生きている人間だからだと思う。飯田史彦氏の三部作(生きがいの本質・生きがいの創造・生きがいのマネージメント)を読んで教えられたことではあるが、人間はこの世に生を受けて来る時に課題を与えれており、課せられた課題に気づいてそれを達成しなくてはならない。
二人の短編を読むたびに自分に与えられた課題について思わされることが多く、見えない手で二人の作品を読めと導かれているような気がしている。
二人の作品をすべて読んだわけではないが、今まで読んだ中で印象に残った作品は、浅田次郎の作品では『角筈にて』で、オー・ヘンリーの作品では『ニ十年後』である。
  1. 2011/04/14(木) 11:47:40|
  2. 文学
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永山さくら通り

多摩ニュータウンの永山駅の近くに「永山さくら通り」という桜の名所があります。この通り沿いに桜並木が見られます。一部では通りの両側に覆いかぶさるようになっていて、さながら桜のトンネルと言った風情です。20110410永山桜 001A20110410永山桜 052A
20110410永山桜 020A
20110410永山桜 035A
20110410永山桜 036A
20110410永山桜 045A
  1. 2011/04/11(月) 07:20:44|
  2. 季節
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多摩NT 乞田川の桜

多摩ニュータウンにおける桜の名所「乞田川の堤沿いの桜」をご案内します。
京王・小田急の2線の永山駅~多摩センター駅の間で並行して流れる乞田川の堤沿いに見事な桜並木が見られます。川沿いの両堤に連続して桜が咲き誇る様子は見事としか言いようのない素晴らしさです。圧巻です。
私のつたない写真技術では、その壮大な様をお伝えできませんが、少しでもその雰囲気を味わっていただければと思います。
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DSC_1132A.jpg20110412乞田川桜 018A
20110412乞田川桜 010A
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  1. 2011/04/11(月) 07:02:27|
  2. 季節
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目黒区 呑川の桜

都内での桜の名所と言えば上野・飛鳥山・隅田川などですが、目黒区ですと目黒川・呑川沿いの桜の並木が有名です。呑川は私の生まれ育った中根近在が洪水対策で暗渠になりその上に土を盛り桜が植えられたものです。はっきりは憶えておりませんが、私が高校生の頃に暗渠になったのではないかと思ってます。そうすると樹齢40-50年ということになります。例年ですと、桜祭りで提灯がぶら下がるのですか、今年は震災の為に自粛ムードで飾りつけは無しでした。私は元々提灯などの飾り付けが無いほうが好みでしたので、結果オーケーです。落ち着いた雰囲気の中で花見を楽しめました。
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  1. 2011/04/10(日) 21:51:20|
  2. 季節
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桜の前触れ

春を象徴する花である桜が開花して、ここ多摩ニュータウンでも満開の時期が近付いています。そんな桜の前触れのように桜の咲く頃にいち早く春を彩る草木があります。それは「ユキヤナギ」と「レンギョウ」です。私の散歩道のここかしこにユキヤナギの白とレンギョウの黄色の競演をみることができます。この二つの花の競演をみるのは私にとって春の息吹を感じさせてくれるひと時となっています。
201104002永山 009A
201104002永山 024B
201104002永山 040A

  1. 2011/04/07(木) 16:00:11|
  2. 季節
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唐木田・川井家桜&枝垂れ桜

川井家の枝垂れ桜は既に満開となっていることを先回レポートさせていただきましたが、昨日も見にいきました、夕方の訪問でしたので夕陽に照らされて少し赤みがかったなまめかしい容姿の枝垂れ桜をお目にかけます。川井家の庭には枝垂れ桜ではない桜もあり、こちらも満開になっておりました。
勢いに乗って、近くの「からきだ百本しだれ」の様子を見にいきましたが、こちらはやはり時期尚早、2分咲きと言ったところでした。
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からきだ百本シダレは、ほとんどの木が未だ蕾の状態で、数本の木にこのような花が見られた程度です。

  1. 2011/04/07(木) 14:36:34|
  2. 季節
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私の車遍歴(1) MINI

「私の車遍歴」と題して私が所有して乗った車について語って行こうと思っている。

その第1回目に登場するのは、私が最も乗りたかった車の筆頭であるクラシックMINIである。今日本で新車販売されているMINIはBMWが買収したイギリスのROVER社の開発チームが開発して元ROVER工場で生産されてBMWによって販売されているものであるが、クラシックMINIはBMWが買収する以前のROVER社の前身BMC(British Motor Corp.)の有名なエンジニアであるアレック・イシゴニス氏が開発し生産されたエポックメーキングな名車である。1959年から2000年10月までに総数530万台が生産された、非常に長寿な車であった。
FFの先駆者でもあり、横置きエンジンの下にミッションがある2階建て構造で、モンテカルロラリーでは優勝もしていて、それを模した姿でMINIに乗って楽しんでいる人も多い。
昔から憧れた車で、一度はMINIに乗りたいと心密かに思っては居たが、1台しか持てない時代にMINIに乗る勇気はなかった。しかし長じてお金に余裕が出来て複数の車を所有することが出来るようになり、私の遊び車としてMINIをチョイスできる幸運がやってきた。2000年で新車販売を終了していたので、私が選んだのはMK10と呼ばれるクラシックMINI最後の世代(1997-2000年)の中古車であった。
1997年型ROVER MINI COOPER 1.3i 色は私好みのBritish Greenで屋根は白、ボンネットには2本の白いストライプが走り、足元は定番のミニライトのアルミホイール、そしてホイールアーチには銀色のトリムが回るという全く私好みの仕様で、中古車屋で見つけた瞬間に一目ぼれしてほぼ即決に近い購入であった。一生ものと決めて、メンテナンスは横浜にある英国車のガレージである「リーフガレージ」にお願いした。

私は通勤の足に使う予定でMINIを購入したのでなるべく実用車に近い状態でMINIに乗る必要がありMK10を選んだ。日本の要望が強いエアコンをつける為にMINI MK9からシングルフューエルインジェクションとなり、MK10ではハンドルにSRSエアーバッグも付いている。ミニのエアコンは容量が小さいので日本の過酷な夏では焼け石に水であったが、この時代の車の盲点である窓締め切り時の換気機能<ベンチレーション)不足を補い雨天時に窓が曇るのを防ぐという点で必要な装備であった。とにかく乗って楽しいという点では私の車遍歴の中では最高点をあげても良いと思っている。
よく言われるゴーカートのようなハンドリングとは正にその通りで、昔友人と一緒に遊んだゴーカート場での日々を思いだしてハンドルを握りながら思わず笑みがこぼれてしまう。購入以前からミニに関する雑誌や単行本を買って十分知識を得ていたので、ミニでよく言われる短所は全く気になりませんでした。
しかし、それだけ研究し尽くしていた私も、乗って始めて気づかされた問題点がいくつかあった。まずその第一は車高の低さからくる夜の後続車のヘッドライトがまともに入るバックミラーへの反射である。ヘッドライト位置の高いバス・トラック・SUV車が夜に後ろに付くと結構しんどかった。それと構造上の問題でオイルパン位置がかなり低いことは十分理解していたし、そのためにアンダーカバーも付いていたのだが、ガススタやコンビニ入るときに歩道を越える段差で腹をこする音が聞こえたり、道路上のちょっとした突起や段差に腹をこすることが多くて、非常に運転に気を遣う必要があった。意識的に段差を越えるときには片足づつ時間差で越える運転テクニックを要した。そのために付けてあるアンダーカバーなのではあるが、アンダーカバーをこする音が聞こえるというのは決して気持ちの良いものではない。
そんなマイナーことではめげない私は、嬉々としてMINIとの生活を楽しんでいたのだが、家族からは総好カンを食ってしまい、極端に重いハンドルと現代の車の持つ快適装備の一切無いミニには白い目を向けられて針のムシロ状態となり、あれだけメンテにお金をかけて予防措置をしていたのに突然訪れたオーバーヒートが引き金となり、その他諸々の積もった問題も加勢して、永久保有の固い意志の元に購入したMINIを最終的には手放すことになりました。
最後にミニが家族にもたらした驚きは「うれしい驚き」でした、それは購入金額と売却金額がほとんど変わらず、経費を別とすればただで3年間ミニを楽しめたことでした。私も色んな車に乗りましたが、新車・中古車を問わず買った金額と売った金額がほぼ同等というのはミニ以外では経験しておりません。家族の拍手と私の涙の中をミニが去っていった日のことは私は今でも鮮明に覚えています。

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  1. 2011/04/05(火) 15:49:09|
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満開の川井家枝垂れ桜

昨日陽気に誘われて川井家の枝垂れ桜を見に行って来ました。
この陽気だと開花が一気に進むだろうとの思惑通りちょうど見頃で、理想の花見時になってました。
ピンク色を未だ少し残した満開直前の状態で、これから高貴な白色に染まって行きます。毎年の事ながらその美しく気品ある枝垂れ桜の艶姿に魅了され、しばし言葉を忘れて見入ってしまいました。
多摩ニュータウンは桜の宝庫で、川井家の枝垂れ桜を皮切りに次々と桜が咲いていくのが楽しめますので、これからしばらくの間は、このブログにて多摩ニュータウンの桜の便りを日替わりでお送りして行こうと思ってます。
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  1. 2011/04/05(火) 11:19:04|
  2. 季節
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運転マナーについて

私は18歳で自動車の普通免許証を取得して40年以上車を運転してきた。その間、車も進歩してよくなり高速道路もできて自動車をとりまく環境は良くなっている。
しかし、運転マナーに関しては逆に悪くなってきていることを感じている。運転マナーの悪さが害を生じないのであれば仕方ないと嘆いて終りであるが、マナーによっては明らかに事故に繋がる可能性が高いものがあり、これは社会の問題として解決策を探す必要があるものと思っている。

その1:左折時の大回り

昔はありえないことだったが、ここ10年ぐらいの間に非常に目立つ現象で、ラフな観察ではあるが左折時にセンターラインを越えて大回りする車が50%以上あるものと思っている。当然ホイールベースの長い車(大型トラックやバスなど)は内輪差が大きいので道幅によってはセンターラインを踏んで大回りする必要があるし、ホイールベースが普通サイズでも交差点の角度が鋭角になっている場合にはやはり大回りの必要があるので、それを指摘するつもりはない。
しかし、昨今普通の道幅の交差点で普通サイズの車が、さらには軽自動車でさえ角から1m以上の余裕を残して大回りしている。これはセンターラインを超えた時には対向車と正面衝突の危険性があり、是非やめて欲しい行為である。現に私の長女の運転する車が大回りしてきた車と正面衝突をしているし、私自身でも何度かヒヤッとした経験を持っている。 何故そうゆう車が増えたのか考えて見た、一つは運転技術的にはちゃんと曲がれる技術を持っているのだが交差点で減速する速度をサボって高速で曲がりたがる人がいることと、二つ目は運転技術が未熟で自分の車の内輪差が正しく取り込めてなくてマージンを広く取り過ぎて大回りするケースであると思っている。
2番目のケースは私の想像であるが、少子化などで免許を取る人数が大幅に減少したことから自動車教習所の審査が甘くなり本来は運転できない未熟な生徒を甘く採点して、運転技能未熟者を多数輩出しているのではないかと考えてます。私の免許を取った頃の運転技術があるなら絶対ありえないことなのですから。何故そう考えるのかというと、最近免許を取った方の中に縦列や車庫入れがヘタな人が多いということです。ハンドル切った時の自分の車のタイヤの航跡を正しく認識できないまま運転している人が多いので、そのように邪推するわけですが。
それとも、もしかして運転未熟の問題ではなく1番目の理由だけだとしたら、それはそれで単純にマナーの問題になるのですが、危険性をはらんだ行為であることは間違いなく、なんらかの対応策は必要と感じてますが、私には妙案がありません。

その2:赤信号無視

これもここ10年くらいの間に目立つようになった行為ですが。明らかに赤信号になっているのに信号突破を試みる車が目立つようになりました。これは事故を起こす可能性の非常に高い行為でなんとして止めさせなくてはなりません。私も青で発進しようとした目の前を横切る車を何度も見かけて冷やりとさせられることが多くなりました。最近では私は、青に変わった時でも、交差点に突っ込む車がいるのではないかと恐れて、徐行確認するケースが増えてきました。特に信号手前で青に変わったばかりの時には絶対にそのまま交差点に進入することなく徐行ないしは止まる寸前くらいに速度を落として赤信号無視の車に気を付けます。これは本来の道路交通法による黄色信号を前方に見かけたら減速として赤信号に備えるという基本の決まりを殆どの人が守らない事に端を発してます。最近はそれがエスカレートして全ての信号機が赤になる一瞬があることを逆手にとって、赤になっていることを承知で進入するケースが増えています。その結果交差する道路の信号機が青になっていても車が進入してきて事故の危険性を増大させているわけです。

これは明らかにマナーの問題で運転者の意識を変えないことには解決はできませんが、交通マナーキャンペーンやマナー教室の実施などで意識を変えることは容易ではないと思ってます。
これに対する私の解決策は、スピード違反と同じく交差点に監視カメラを設置して違反者を取り締まることしかないと思います。全信号機にカメラをつけることは予算的に無理だと思うので、ダミーのカメラをつけて時々アットランダムに本物と付け替えをして抑止効果を狙うということで良いのではないかと思ってます。

  1. 2011/04/04(月) 10:09:36|
  2. 時事問題
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浅田次郎

最近の作家の本はあまり読まない私ですが、最近浅田次郎に目覚めてしまいました。映画化された『鉄道員』を書いた作家であることは認識してましたが、映画も観てないし本も読んでなくて、でも私の中にはなんとなく浅田次郎のイメージがおぼろげに形成されていました。そして『月島慕情』を手に取りすっかり浅田次郎の小説に魅了されて、続けて『霞町物語』・『地下鉄に乗って』と読み進んでしまいました。ところが読み進んでいく内に自分の抱いていた浅田次郎のイメージがずれていたことがわかり始めて、彼が週刊現代に連載したエッセイ集の単行本『勇気凛々ルリの色』で彼が体育会系?作家であったことがわかり唖然とさせられました。

私は体育会系とは正反対の人間なのに何故か彼の書く本には魅了されてしまいました。彼は私よりは数年若いのですが、いわゆる団塊の世代の人間なので、私と似た価値観を持っています。
例えば『勇気凛々ルリの色』のタイトルを見てすぐに少年探偵団を連想しましたし、あのメロディーもすぐに浮かんできてしまいました。彼いわく私と同じ反応をするのは団塊の世代の人間で、それより若い世代の人は全くこの『勇気凛々ルリの色』タイトルを見ても「何?」という反応しか示さないそうです。

『勇気凛々ルリの色』の中に「大きなお世話について」という章があり、そこで電車の中でパンを食べ・牛乳を飲む若い娘に説教を始めるくだりがあるのですが、私は深く共感してしまいました。何故ならボックス席を持つ長距離列車ならいざ知らず、ロングシートの通勤電車では、私はパンやお弁当を広げて食べる勇気を持ち合わせていませんし、他人がそのようにしている姿がとても気になり許せないのです。
幸か不幸か、最近は横須賀線や湘南電車などの中距離電車からボックス席が消えつつあり、ひどい時はオールロングシートという編成の時もあります。過日常磐線で勝田まで行くことがあったのですが、仕事ではなく遊びの所用でしたので、特急ではなく普通電車で行きました。その時覚悟はしていたのですが、土浦で乗り継いだ電車が生憎とオールロングシートの編成で昼食として上野で購入してあった弁当を広げられずに困りました。幸い途中から車内が空いてきて人目を気にしなくて良くなってきたので、こっそりとお弁当を広げて食べる事が出来ましたが、何故か後ろめたさを感じてしまい落ち着いて食べる事が出来ませんでした。
JRには声を大にしてお願いしたい、50km以上の距離を走る中距離電車(鉄ちゃんの世界では近郊型電車と称する)には是非ともボックスシートを残して欲しい。団塊世代以降のおじさん・おばさん達はロングシートで飲食をすることは出来ない習性であることを理解して欲しいのです。

若い世代の人にそんな体験談を語っても理解してもらえないでしょうが、団塊の世代以上の人間にはそのような感性というか常識が作用してしまうものなのです。

浅田文学で綴られる世界には団塊の世代が通ってきた世界や情景や風俗が描かれており、特に『霞町物語』はその濃度が濃いので、読んでいて思わず共感を呼び起こされることがしばしばなのです。

  1. 2011/04/03(日) 11:24:10|
  2. 文学
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まだまだ現役、頑張っている小田急5000系

5000系最後の6連(5268F)が1月末に引退するに際して1月29日・30日に5000系10連のさよなら列車が運転された。さよなら運転が行われたことで5000系がすべて引退してしまったかのように思ってしまうが、どっこい5000系4連はまだ現役で頑張っている。4連しかないのでオール5000系は望めないが他の形式の新宿寄りに連結されて颯爽と走る姿はまだまだ見れる。残る5000系4連は6本。駅か沿線で2時間くらい居れば必ず5000系に遭遇できる筈。今日は新百合ヶ丘駅に30分いる間に運良く5000系にめぐり会えましたので、その時の写真をお目にかけます。
鉄道の写真を撮るようになってからずーっと親しんできた小田急顔、独特の貫通扉に手摺のついたブルーとアイボリーの電車に会えなくなるのも時間の問題。時間の許す限り5000系の写真を撮りに行きたいと思ってます。
DSC_2354B.jpg
新宿行き急行の先頭に立つ5063F
DSC_2361A.jpg
DSC_2355A.jpg
塗装車としては8000系が元気に活躍中だが、やはり小田急顔の手摺付き貫通扉のこの姿には愛着を感じる。
  1. 2011/04/01(金) 22:52:17|
  2. 鉄道
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節電中の東横線渋谷駅

東横線は10時-17時の間は特急・急行の運転を取りやめ各駅停車のみで運転されており、運転本数も減少している。そのために渋谷駅では1番線と3番線を使用せず2番線のみ使用して折り返し電車を裁いている。駅構内でも節電で照明が削減されており、ホーム全体が薄暗い印象がある。DSC_2305A.jpg
1番線の電車はパンタを降ろして留置中。2番線の電車のみ客扱い中。
  1. 2011/04/01(金) 18:42:11|
  2. 鉄道
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唐木田 川井家枝垂れ桜

東京の桜の開花宣言がなされたので、多摩市の天然記念物にもなっている川井家の枝垂れ桜を見に行って来ました。枝垂れ桜は染井吉野よりも早く満開になるので、もしかしたら見頃を迎えているのではと期待して見に行きましたが、未だ満開ではなく5分咲きくらいと言ったところでした。満開に近付くにつれて色がピンクから白になっていくので、むしろピンク色の濃い今の方がいいかなとも思いました。
樹齢200年の老木で毎年今年が最後かと心配されている川井家の枝垂れ桜ですが、今年も元気に花を咲かして震災の為に沈んでいた心を明るく元気にしてしてくれました。
DSC_2317A.jpg20110401唐木田桜 015A
20110401唐木田桜 016A
下の写真はお隣の鶴牧西公園の桜、まだ2分咲きくらいでした。来週の週末には満開になると思います。
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  1. 2011/04/01(金) 17:45:29|
  2. 季節
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プロフィール

nighttrain999

Author:nighttrain999
目黒区の都立大学で産湯を使い、長じて多摩ニュータウンに移り住んでン十年の”おじさん”です。サラリーマン渡世を無事に勤め上げて第二の人生を謳歌しております。
多彩な趣味のお陰で時間が足りなくて、とても仕事をしている暇がないという次第。
興味のあるものは: 鉄道・車・オーディオ・カメラ・地図・文学・歴史・音楽(特にJAZZ)・英国

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