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ナイトトレインの平成・徒然草 ~心にうつるよしなしごとを書き連ねて~

《鉄道》《車》《音楽》《文学》等にまつわるよしなしごとを、つれづれなるままに書き連ねてまいります。 このBLOGに掲載された写真などを他のMediaなどに掲載される際の問い合わせ先はn.sugii@nifty.comです。 

総天然色の鉄道風景 (その4) 1968年のこどもの国線

1967年にこどもの国線が開業して、こどもの国線専用の塗り分けの電車が走り始めた。
当時は未だ輸送量もそれほど多くなくて閑散時には単行で十分だった。従って1両でもOKな両運転台の車両が当てられて、デハ3405+クハ3866の2両にこどもの国専用の白羽の矢が立った。デハ3405は変則の両運転台車で、クハ3866との連結面側運転室は、全室運転台ではなく片隅のみの運転台だった。
その後1972年にクハ3866からクハ3862に相棒が変わったものの1975年までデハ3405が使用された。1975年にデハ3608+クハ3772(二代目)に変わり、デハ3608が片運転台であったことから単行運転は無くなった。と言うよりも、輸送人数が増加して常時2両編成でもOKになったので、両運転台車を必要としなくなったというのが正しい表現かも知れない。

相鉄三井埠頭他1968006A
こどもの国線専用車両は7200系(三代目)や7000系(四代目)の時代はカラー写真で紹介されていることが多いが、一代目・二代目の時代はモノクロ写真がほとんどでカラー写真で紹介されていた記憶がほとんど無い。
そういう意味ではこの写真は貴重なカラーでの記録写真になっているものと思う。手前右側の車両がクハ3866なので連結面を良く見ると、デハ3405のテールランプがちらっと見えて運転台がありそうなのに乗務員扉が無く普通に側窓・妻窓が見えることから片隅(写真と反対側)運転台であることが判る。
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  1. 2011/06/30(木) 21:21:33|
  2. 総天然色の鉄道風景
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京王線6000系引退 (その2) 競馬場線6416F&6417F

2011年まで残った6000系は2連のワンマン仕様6416F&6417F2本と同じくワンマン仕様で動物園線専用の6722F(4連)1本の合計3本だった。3月に引退することは事前の報道でわかっていたので、本線のどこかの区間を使って、6416F+6417F+6722Fの8連でさよなら列車を運転するものと思っていた。
しかし、1月末で競馬場線の6416Fと6417Fが引退してしまい、さよなら列車は6722Fのみとなる可能性大となった。ところが京王の発表を見ると多摩動物園駅で「6000系さよならフェスタ」のみ行いさよなら運転はしない事が明らかになった。

そんな中、競馬場線で最後の活躍をする6000系を1月に撮影で訪問しているので、ご紹介したい。

DSC_1355A
府中競馬正門前駅に佇む6417F。競馬の無い平日は広いホームも閑散としていて2両編成でも余裕、乗客は廃止を知って写真を撮りにきた鉄ちゃんが十数名で、一般乗客は数名だった。

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駅の改良工事中でトンネルの中のように暗い東府中駅で発車待ちの6417F。

DSC_1369A
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DSC_1374A
20110112競馬場前 019A
20110126府中競馬正門前 014A
20110126府中競馬正門前 029A
20110126府中競馬正門前 005A
  1. 2011/06/30(木) 10:32:09|
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京王線6000系引退 (その1) 8連6717F

1972年(昭和47年)に誕生して、その後も増備が1991年(平成3年)まで続き長年京王線の顔であった6000系が、今年3月の動物公園線専用の6722F4連を最後に引退した。2010年4月の時点で8連1本、4連1本、2連8本と風前の灯火状態になり、2010年8月に8連の6717Fが消え、12月までに2連6本が消え、2011年1月にワンマン仕様で競馬場線専用だった2連2本(6417Fと6417F)が消えて、3月に4連6722Fがj消えて行った。
最終期には帯の色が変わってしまったが、京王最後の塗装車体でアイボリー色のボディにコーポレートカラー(チェリーレッドとインディゴブルー)の帯を締めて走っていた姿をもう見ることはなくなってしまった。ステンレスボディの電車は露出が難しくて写真を撮る上では余りありがたくないし、背景などとのマッチングの観点でも塗装ボディーの方が写真になりやすかったので、なおのこと6000系のいなくなった京王線電車の写真を撮る意欲が湧かなくなっている。

さて、昨年の8月引退直前の8連6717Fの最後の活躍の様子を撮った写真をお目にかけることとしたい。最後は朝の通勤時間帯だけに限定で2連の6000系を連結して10連で運用されていた。次のような行程、高幡不動→新宿→高尾山口→高幡不動、そして短い旅を終わるとそのまま車庫に入る運用だった。

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高尾山口行き各駅停車として多摩川鉄橋を渡っていく6412F(2連)+6717F(8連)

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新宿寄りに2連の6412Fが連結されている為に6717Fの新宿側のクハ6717の顔は見る事ができない。

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高尾山口発高幡不動行きとして最後の力走中の6412F+6717F。クハ6717の前に連結されている2連6412Fが良くわかる。

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あと少しで高幡不動に到着して車庫に入り昼寝のお時間となる6717F。
  1. 2011/06/30(木) 00:07:14|
  2. 鉄道
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新春の本牧”三渓園”

季節が違うのをお許しいただくことになるが、今年1月に横浜本牧の”三渓園”を訪問した。
長いこと私の中で気になっていた場所で、念願がかなってやっと訪問することができた。若い頃車のダブルクラッチの練習に本牧埠頭まで出かける事があり、近くに”三渓園”という施設があえうことがわかり、どのような場所なのか謎になっていた。また廃止の決まった横浜市電撮影の時にも”三渓園”という名前が目につき、ユーミンで有名になった「ドルフィン」に行く途中でも”三渓園”と言う名前が登場して、常にひっかかっていた。

そしてついに、今年の1月にガイドツアー付きの三渓園見学を果たしてその全貌が私の中で初めて明らかになったのだ。

三渓園は、生糸貿易で財をなした横浜の実業家 原三渓の元邸宅。原三渓は、ここに京都や鎌倉などから歴史的に価値のある建築物を移築し、1906年(明治36年)に”三渓園”として一般に公開した。53000坪の園内には10棟の重要文化財を含む17棟の古建築物が四季折々の景観の中に巧みに配置されています。

園内は外苑と内苑に分かれており、内苑は1958年(昭和33年)に横浜市に寄贈されるまでは原家の私庭であったエリアで、1909年(明治42年)建築の延べ床面積950㎡にもおよぶ広大な規模の原家旧宅もここ内苑にある。原三渓は文化人との交流も多くて、その中には著名な日本画家の横山大観も居て、滞在中に彼の製作した絵も残っている。
内苑に池を臨んで建っている江戸時代初期の紀州徳川家ゆかりの臨春閣の景観は、京都桂離宮と対比されるものだとか。

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外苑の大池に架かる観心橋。橋を渡ると大池にある涵花亭へ行ける。橋の背後に見える塔は移築されてきた京都・燈明寺三重塔。1457年の築で、関東地方では最古の塔と言われている。

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岐阜県白川郷にあった江戸時代の庄屋の家を移築した合掌造りの古民家。

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鎌倉・東慶寺仏殿を移築したもの。明治の廃仏毀釈の時に失われていくお寺を原三渓が守ったということのようである。

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京都の桂離宮と並び称されると言われる”臨春閣”。 紀州徳川家初代・頼宣が和歌山・紀の川沿いに建てた数奇屋風書院造りの別荘建築。

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道の奥に見えるのが臨春閣の表玄関、右手の塀の中の建物が三渓が隠居所として建てた白雲閣。

DSC_1457A.jpg春草廬。織田信長の弟・有楽斎の作と伝わる三畳台目の茶室。

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聴秋閣。京都二条城にあった徳川家光・春日局ゆかりの楼閣。

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月華殿(徳川家康時代の京都伏見城内にあった大名伺候の際の控え所)と左奥に小さく見える金毛窟(三渓作の一畳台目の茶室)

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燈明寺本堂。京都燈明寺からの移築。室町初期の建築物。

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天授院。鎌倉建長寺付近の心平寺跡にあった禅宗様の地蔵堂。
  1. 2011/06/27(月) 21:58:55|
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My Garden ~6月の庭~

My Gardenと言っても私は何もしてない、私のパートナーがバラを中心して庭作りをしていて、私はその成果をカメラに収めて楽しんでいるだけである。

すでに散ってしまったバラの花もあるが、まだまだ庭ではさまざまなバラが楽しめる。そんな6月の我家の庭を写真でご案内したい。

DSC_2463A.jpg

ジュリア1
バラ「ジュリア」

たちあおい
たちあおい

スイートハートメモリー
バラ「スイートハートメモリー」

ミスティーパープル
バラ「ミスティパープル」

フェアリーベル
フェアリーベル

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てまり草

ナエマ2
バラ「ナエマ」

柏葉あじさい
柏葉あじさい

あじさい2
あじさい

上記の各写真のUPの前に花の名前確認の為にパートナーに写真を見てもらった際に、写真のUPについて難色を示されてしまった。理由は既に満開の時期を過ぎてしまった状態のバラや移した角度がそのバラの特徴を捉えてないないもの、枯れかかった状態の花びらのものが結構多いことで、こんな状態の花をUPするのかと苦言を呈されてしまった。結果として私のごり押しでUPしてしまったが、そういう事情でふさわしくない写真が多々含まれている事をご承知おきの上ご覧いただきたい。
  1. 2011/06/26(日) 22:51:18|
  2. 季節
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総天然色の鉄道風景(その3) 「1963年の京王帝都電鉄」

1963年(昭和38年)8月京王帝都電鉄(現京王電鉄)の京王線昇圧に伴い導入されたのが5000系である。その後の京王カラーの発端となったアイボリーホワイトにエンジの帯という出で立ちはパノラミックウィンドウの端正な顔立ちと共に京王の名車となる所以となった。登場後間もない5000系の写真を撮りに桜上水駅へでかけた時の写真である。撮影日の記録がなかったが、行先方向幕に東八王子が見れることから1963年の8月~12月10日までの間に撮影したことがわかった。さらに特急運転が始まったのが10月1日なので撮影日はさらに絞って10月1日~12月10日までの2ヶ月間のいずれかの日ということになる。
東八王子駅を北野駅側に200m移転新築して京王八王子駅に改称しているのが1963年12月11日なので、8月4日に1500Vに昇圧工事完了して5000系が営業開始してから東八王子の行先表示をして5000系が走ったのはわずか4ヶ月強という短い期間なのである。
カラーフィルムの性能と経年変化の影響で忠実な色が再現できている訳ではないが、アイボリーホワイトがかなり白に近い色に見えるのは正解で、途中からアイボリー系の色合いが濃く変更されているので、晩年に撮った写真ではこんなに白っぽくは見えない。

桜上水10AB
桜上水駅にて乗務員交代の後新宿へ向けて発車していく5000系急行。「新宿⇔東八王子」の行先方向幕はわずか4ヶ月しか使用されてないので貴重な写真となった。

桜上水1AB
急行標識灯を点灯して桜上水駅に進入してくる5000系上り急行電車。

桜上水4AB
標識灯とヘッドライトを点灯して下りホームを駆け抜ける5000系特急東八王子行き。待避線のグリーンの電車は車番が見えないが2000系と思われる。

桜上水3AB
桜上水を後にして東八王子へ向かう5000系特急。この写真だと5000系登場時につけていた先頭車のエンジ色の帯のヒゲが良くわかる。ヒゲが消されたのは1968年の1月頃。

桜上水2AB
桜上水駅上り待避線の2700系。特急運用に間に合うだけの5000系の編成数が揃ってない間の臨時措置として2010系と2700系もアイボリーホワイトにエンジ色の帯となっていたことがあり、これはその時の2700系のアイボリーホワイト塗装の写真。意外と貴重なカラー写真となっているかも知れない。

桜上水5A
当時の京王線の主要車両基地であった桜上水車庫に休む2600系。2600系は1950年(昭和25年)に誕生した京王線で戦後初の新車で、1977年(昭和52年)に高尾線でさよなら運転を行い引退している。

桜上水8AB
桜上水駅上りホームにて発車待ちの2000系急行新宿行き。まだグリーンのままでアイボリーホワイトには塗装変更されてない。

桜上水9AB
桜上水車庫に集う2700系・2600系など。
  1. 2011/06/25(土) 09:17:44|
  2. 総天然色の鉄道風景
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総天然色の鉄道風景(その2) 「1964年夏 新幹線開業前夜」

懐かしのカラー写真第二弾は新幹線です。今ではどこの新幹線と言わないといけないでしょうが、1964年当時は新幹線は東海道しかありませんでしたから、新幹線というだけでOKでした。
さて今回の写真は新幹線開業前に試運転の写真を撮りに東京駅へ行った際に撮影したひとコマです。写真的には人にはお見せするような出来の写真ではありません、カラーで撮ったということと新幹線開業前の東京駅が写っているということが記録写真として意味が出てくるということでご紹介させていただくわけです。

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まだ工事中でホームの先端部分は未完成、ホームにかかる部分の架線柱も仮設の木造?らしき柱なのがいかにもという感じです。当時は駅構内でホームから降りて写真を撮る事が黙認されていた古き良き時代で、新幹線構内も試運転の時は例外ではなかったようです。出発して遠ざかる試運転列車(当時は一形式のみで区別する必要が無く0系という呼称は使われてない)が見えます。右側の在来線ホームには111系の姿が見えます。
  1. 2011/06/24(金) 09:55:13|
  2. 総天然色の鉄道風景
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東京スカイツリー

東京スカイツリーは既に目標の高さ634mに達して、仕上げの段階に入っているが、今年の1月に訪問した折には未だ559mの高さであった。
そんな途上のスカイツリーの様子を周囲を巡って撮った写真からご紹介したい。

DSC_1537A_20110623160725.jpg亀戸天神から見るスカイツーリーは距離があるせいかそれほど高さを感じさせない。

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十間川から見るスカイツーリーは高さを感じさせてくれた。

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下町に在る路地からもスカイツリーはその存在感を示しているのがわかる。

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スカイツリーに近付くと首が痛くなるほど見上げなくてはならない。

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ほぼ真下から見上げると展望台が丸いキャップのように見えて、タワーの先端は見えない。見えてる赤い塔は建設用のクレーン。

20110125亀戸天神 031A
現在の表示されている数字は634mの筈。そうするとこの時の表示は貴重な貴重な工事過程の数字となっているのかも知れない。

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東武鉄道の二つのご自慢のコラボ、特急スペーシアと東京スカイツリー。

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浅草から眺める定番の景観に東京スカイツリーが加わった。
  1. 2011/06/23(木) 16:31:09|
  2. 時事問題
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総天然色の鉄道風景(その1) 「1965年長崎電気軌道177」

カラー写真が未だ一般的ではなかった1970年代前半くらいまでは、私も特別な時にしかカラーでの撮影をしていなかった。そういう次第で当時は未だ少ない鉄道のカラー写真を私のアルバムから発掘してお目にかけることとする。私が使用したカラーフィルムは国産の富士またはさくらのフィルムで感度も低く動きの在る被写体では動体ブレが出易いし、発色や保存性にも劣ることから、JTB出版から刊行されたJWヒギンス氏のコダックを使って撮影された昭和30年代の鉄道写真集と同じような期待を持って見られては困るということを先にお断りしておきたい。

まずその第1回目には高校2年の春に行った九州修学旅行の折に持参したカラーフィルムに運良く映っていた鉄道写真からご紹介する。修学旅行ゆえに鉄道写真を撮るような場所に立寄る筈も無く、カラーフィルムにはほとんど鉄道写真は撮られてない。そんな中でたまたま長崎市内をバスで移動中に車窓から捉えた長崎の路面電車の写真があった。思案橋の電停で停車中の赤迫行き電車を撮った写真で在るが、咄嗟にバスの窓ガラス越しに撮った写真ゆえ反射があったりで決して良い写真ではない。更に色も劣化していたのを出来る限り修正を試みてお目にかけるのがこの写真である。

九州AB

ほぼ同じ形態の168(160形)が車籍のある動態保存車両としては日本最古且つ唯一の木造ボギー車として長崎電気軌道で現役で活躍している。もちろん通常は走ってなくて年に数回イベントとして走行するだけである。
私が撮影した177は170形であるが手違いで170形に組み入れられていたもので本来なら160形になるべき車両だった。168も1965年頃は177と同じグリーンとアイボリーの2色に塗装されていたが動態保存時に初期の色(小豆色)に復元塗装されて現在もその色で活躍中。従って色が忠実に再現できているかどうかは別として1965年頃に撮ったグリーンとアイボリーのツートーンの記録画像としては貴重な写真ではないかと密かに価値を感じている。
160形(161-163)も170形(171-177)も共に1958年に西鉄の福岡市内線から移籍して来た車両で、九州電気軌道(後に西鉄北九州線→福岡市内線)1形が160形に35形が170形に改番されて長崎電気軌道に来ている。九州電気軌道で1形が竣工したのは1911年なので、168号はほぼ100年車歴を誇る。

《参照資料》
Wikipedia/JTBキャンブックス『日本の路面電車Ⅰ』
  1. 2011/06/23(木) 12:36:46|
  2. 総天然色の鉄道風景
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東急総合検測車更新

東急の総合検測車が来年の3月に更新されることになった。下記はその新しい総合検測車の愛称とロゴ募集のポスターで東急沿線の各駅に掲示されている。ポスターと同じ内容の愛称とロゴ募集のお知らせは東急電鉄のホームページでも見ることが出来る。

20110622東横線&京急 006

ポスターのイラストから色んな情報を得る事ができて次期総合検測車の姿を想像してみることが出来た。
現在の東急総合検測車は3両構成でデヤ7290(架線検測車)+サヤ7590(軌道検測車)+デヤ7200(動力車)で定期点検などで池上線・多摩川線の電車を牽引する場合には真ん中のサヤ7590を抜いたデヤ7290+デヤ7200で活躍しているが、今度の総合検測車は2両編成となるようで動力専用者は無しの構成なので、池上線・多摩川線の電車の牽引にはそのまま2両編成の総合検測車を使用するものと推測している。
イラストから判断して屋根上に架線とパンタの接触を観測する為のドームらしきものが描かれている下の車両が架線検測車で上段に描かれているのが軌道検測車と推察できる。両運転台なので構内の入れ換えなどではそれぞれ単独での運行が可能であるとわかる。あとパンタグラフがそれぞれの車両に2丁づつ設置されていていわゆる2丁パンタ車両で在るが、シングルアーム式パンタなので迫力はない。
此れに伴い従来の検測車両は引退となると思うが、もしかすると1998年製で車齢の若いサヤ7590(軌道検測車)は生き残り引き続き軌道検測車として使用され、種車のデハ7200-クハ7500(アルミ試作車)が1967年の誕生で車齢44年になるデヤ7290+デヤ7200のみ廃車となるのかもしれない。そうだとすると軌道検測車と見た新しい総合検測車は動力車で既存のデヤ7200)動力車)の置き換えという設定なのかも知れない。
  1. 2011/06/23(木) 09:43:27|
  2. 鉄道
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ハーモニカトリオ 「ミネストローネ」

おいしそうな「ミネストローネ」、残念ながらイタリア料理の話ではありません、ハーモニカトリオのお話です。大学のOB会総会での懇親会で特別出演していただいたプロのハーモニカトリオ「ミネストローネ」の演奏を大変おいしく楽しませていただきました。普段目にする耳にするハーモニカとは全く世界が違う色んなハーモニカを駆使してのアンサンブル演奏は全く違った音楽の世界へ私を連れて行ってくれました。重厚なベース音に乗っての和音やリズムハーモニカの音、そして素晴らしい主旋律をリードハーモニカが奏でるという、ハーモニカのミニオーケストラといった趣を感じさせる演奏です。メンバーは美しいYoung Ladiesで構成されてますが、皆さん国際コンクールでの優勝者の方々で、若いが素晴らしい技術と音楽的才能に溢れる演奏を展開してくれました。

演奏途中でプロの司会もされているメンバーのお一人の方が、使っているハーモニカの種類を説明してくれましたが、ハーモニカにこんなに沢山の種類があることをこの時に初めて知りました。
ハーモニカには、複音ハーモニカ(一般には一番良く知られている)・クロマチックハーモニカ・ブルースハープ(10ホールズハーモニカ)・コードハーモニカ・ベースハーモニカなどの種類があり、この日ミネストローネの演奏で使われたのは、クロマチック・コード・ベースの3種類のハーモニカだった。ベースハーモニカはなんと3Kgもの重さがあるとかで、ベースハーモニカ担当のうら若き女性の方は「(演奏の為に)筋トレしてます!」と冗談めかして話してました。

大学ゼミのOB会のメンバーは60-80歳代で平均年齢70歳くらいなので、メンバーの年齢に合わせて美空ひばりメドレーやダイアナなどのオールデイズHITメドレーも織り交ぜての演奏会でしたが、やはり「ミネストローネ」の本領を発揮していたのは、ヴァルセンチーノやチャルダスなどの大曲でした。

小学校の音楽の時間にハーモニカで「赤とんぼ」を吹いた思い出くらいしかハーモニカでの認識がなかった私ですが、ミネストローネの演奏ですっかりハーモニカ音楽に目覚めてしまいました。
これからは機会を見つけてハーモニカ演奏会に出かけて行きたいと思ってます。

ミネストローネ005A
  1. 2011/06/22(水) 08:49:41|
  2. 音楽
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1000人の写真展「私のこの一枚」 (その3)

写真展の写真を見ているといくつかの分野に分類できる、例えば風景・スポーツ・人物・動物・花・魚などである。そして最近の写真展で少なからず見る事ができるのが鉄道の写真。今回の展示でも鉄道を対象にした写真がやはり数点見られたのでここにご紹介したい。所謂「撮り鉄」の人の手になる作品だなとおもわされるものから、特に鉄道に興味が在る火とではないがたまたま鉄道を題材にしたという作品も見られた。

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個人的に鉄道作品部門の最優秀賞を差し上げたい作品がこれ。廃止になってたまに保存運転がされる南部縦貫鉄道の有名なレールバスを撮った写真で在るが、今まで数多く見てきた南部縦貫鉄道の写真では見ることのできなかった新鮮な切り口での写真で文句無しにすばらしい。

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鉄ちゃんなら皆知っている小海線の撮影名所、小淵沢の大築堤を行く気動車を撮った写真である。この場面での写真は見慣れているのだが、背景の八ヶ岳と雲の見え方が良くて印象的な写真となっている。

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今や東海道新幹線から引退して見ることのできない500系新幹線を定番の富士山と組み合わせて撮った写真。手間に芝桜を配したことで富士山と桜のゴールデンコンビを行く最後の500系を捉えているのが、この写真の味噌であろう。私も最後の500系をできればこのような良い背景と前景の中で撮りたかった。

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これまた既に中央線から引退して見ることのできないオレンジ色の201系と桜を組み合わせた写真。東中野の桜は中央線の電車と組み合わせて撮る場所としては有名で在るが、私のはこの画角で電車をアウトフォーカスにして撮った作者の慧眼に脱帽した。私もこの場所は何度も足を運んでいるが、いつも陸橋からの撮影だったことを今深く反省している。
  1. 2011/06/19(日) 09:18:28|
  2. 写真・カメラ
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1000人の写真展「わたしのこの一枚」を見て(その2)

1000人の写真展には私の所属する写真クラブが団体で参加していることは前にご紹介した。ということで団体でまとまって掲示されていた所属クラブ「江友会写真クラブ」の作品をご紹介する。

手前味噌になってもいけないので、ここでは敢えて講評はせずに、ただ写真を羅列して皆様の厳しい目で見ていただければ幸いです。

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  1. 2011/06/17(金) 22:17:41|
  2. 写真・カメラ
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1000人の写真展「わたしのこの一枚」を見て(その1)

パークタワー・ギャラリー3にて開催されていた<1000人の写真展「わたしのこの一枚」>を見学に行ってきた。この写真展は東京写真月間の企画の一つで、だれでも規定の出展料を払えば参加・出展できるのが特徴なので私のように下手な写真からセミプロ級の腕前の写真まで実に幅広く掲示されているのが楽しい。

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公正に判断しても私の写真は下から数えた方が早い、いや一番下かもしれないが、一方まるでプロが撮ったのではないかと思われるような素晴らしい写真も数多く掲載されていて、見ていて大変勉強になる写真展である。
私の独断と偏見でチョイスした今回の写真のベスト10をお目にかけたいと思う。

DSC_2295A.jpg この写真は、ひと目見た瞬間に心を奪われてしまった作品で、私が審査員だったら間違いなく最優秀賞を差し上げたいと思った写真である。多分演出だろうと思っているが、物語性のある素晴らしい作品。わざとモノクロームに近い温色系でまとめたところは、このシチュエーションにぴったりと嵌まっていて、拍手をしたくなる。映画の1シーンを切り取って写真にしたような不思議なムードで溢れている。

DSC_2296A_20110617145639.jpg写真とは思えないファンタジックムードを感じた作品で、このような光景が本当にあったのだろうかと思わされるほどであった。絵だといわれても疑うことができない作品である。

DSC_2316A.jpg 実に良いタイミングで捉えた素晴らしい動物写真である。

DSC_2317A_20110617153103.jpgこれもまた絵の中の世界のような素晴らしい作品で在る。このような場面に出会えたとしても、このようにうまく写真に表現できたかどうか私に自信がないが、すばらしい物語を感じさせる作品である。

DSC_2325A.jpg童話の挿絵にしたくなるような物語性のある写真で、私はこのようなストーリー性の在る写真に惹かれることが多い。

DSC_2327A.jpg 実に見事に紅葉の夜景を藝術作品にしてしまった写真である。数年前に京都の嵯峨野観光鉄道で保津峡の紅葉のライトアップを楽しんだが、私のつたない写真の腕ではなかなかその魅力をあますことなく写真に表現する事ができなかったことを思いだして、この写真に尚のこと感心してしまった。

DSC_2332A.jpg この見事なタイミングの捉え方にただただ脱帽の作品である。この作品の作者はこのタイミングを捉える為に大変な努力をしたのであろうと思って感心することしきりである。多分夕焼けか朝焼けの中での撮影だと思うが、その赤っぽい色が実に良く合っている。

DSC_2334A.jpg題名からすると対象の人はモデルではなく同じ撮影者の一人なのだろうか、とても素人とは思えない様になっているポーズがこの写真の肝だと思う。背景もぴったりだしセピア風というかモノクロ調での仕上げがこの場面に適切なアレンジで、いい作品である。

DSC_2338A.jpg 東京オリンピックの時のポスターを思い出させてくれた写真。綿密な事前の計算がなせる技で、思わず拍手を送りたくなった作品である。

DSC_2342A.jpg
スポーツ写真なのに物語性を感じさせられた作品。今回の作品の中では私的には1・2を争う出来の作品である。
この流し撮りは難しいと思うが実に適切に対象を捉えている、この作者の腕前はプロ級であると素直に脱帽。





  1. 2011/06/17(金) 15:37:54|
  2. 写真・カメラ
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オールステンレスカーの始祖・7000系

1962年(昭和37年)東急電鉄に日本で初めてのオールステンレスカーが誕生した、いまや日本の鉄道事業体にとっては標準のようになっているオールステンレスカー、それまでは外板のみステンレスのセミステンレスカーしかなかったので、当時は台枠からすべての構体がステンレスで出来ている車両を敢えて区別する意味でオールステンレスカーと呼称した。今では登場するすべてのステンレスカーがオールステンレスカーなので、区別する言葉であるオールステンレスカーという言葉は死語となり使われなくなっており、「えっ!オールステンレスカー? 聞いたことないなあ」と首をかしげる人も多いものと思う。

東急車輛では7000系以前に5200形や6000形などのセミステンレス車両を誕生させていてステンレスカーの先駆者的な役割を担っていたが、技術的にオールステンレスカーを作ることは未だ出来なかった、そこでアメリカのバッド社と技術提携してオールステンレスカーを作った、それがわが国初のオールステンレスカー7000系である。それまでの流麗なデザインの5000形や5200形や200形と異なり切妻形の機能に徹したデザインでフィラデルフィアの地下鉄を思わせる車体デザインやパイオニアⅢ形というディスクブレーキのディスクが台車枠の外に飛び出して金属系のバネがない独特の台車デザインという従来の車両とは異質な姿で登場した7000系を初めて見た時の衝撃は今でも鮮やかに覚えている。

7000系の第一編成(7001F)はオールMの下記のような編成で新製登場した。

←渋谷 デハ7001-デハ7102-デハ7101-デハ7102 桜木町→

その後も主に東横線で活躍しており、1980年の時点では7003Fと組んで8両編成で活躍。

←渋谷 7001F(4連)+7003F(4連) 桜木町→

そして1984年に大井町線に転籍して下記のように6両編成で活躍

←大井町 7001-7102-7103-7104-7101-7002 二子玉川→

そして1988年7月に7700系に改造されて目蒲線に転籍して新製時と同じ4両編成になって活躍

       Tc-M-T-Mc
←目黒 7910-7810-7960-7710 蒲田→ 改造後(7700系)
     (7001-7102-7101-7002)      改造前車番(7000系)

そして2000年にサハ7960を抜いて3両編成になり多摩川線・池上線の共通運用に入って今日に至る。
サハ7960(元デハ7101)は2001年11月17日付けで廃車。

←多摩川・五反田 7910-7810-7710 蒲田→ 

7000系の最後の電車は子供の国線に残ったデハ7057-デハ7052の2両編成で1999年7月31日で
営業運転から退いた。そして翌年2000年3月にさよなら運転をして東急車輛に引き取られ牽引車として活躍。
最終的にデハ7052が東急車輛の産業遺産第2号に指定されて永久静態保存されている。

1960鉄道写真 045
改装工事中の東横線渋谷駅にて登場初期の頃の7000系第一編成。未だ急行標識灯が追加取り付けされる前の姿。
1960鉄道写真 081
7000系第一編成の運転席。デッドマンの付いたマスコンハンドルが懐かしい思い出。
1960鉄道写真 072
東横線渋谷駅にて6000系(B編成)と並ぶ7000系第一編成。後方に東横百貨店が望める光景も今となっては懐かしい風景である。6000系は東芝の電装で直角カルダン駆動の6200形4両編成。6000系は4両編成が5本製造されたが残り4本が東洋電機の電装で平行カルダン駆動だった。

1960鉄道写真 090
立体交差化されて高架駅になったばかりの都立大学駅へ進入する下り桜木町行きの7000系第一編成。それまでは目黒通りが立体で東横線の上を通るようになっていて都立大学駅は島式ホームの地平駅だった。折り返し用の渡り線もあったが高架駅になって渡り線のポイントは設置がなくなった。

DSC_2355A_20110615100809.jpg
蒲田駅にて多摩川線の運用に入っていた7910F(3連)。この7910Fの種車は1961年12月に製造されて1962年1月から営業運転に入った7000系の第一編成(上記の渋谷駅や都立大学駅で撮影された編成の車体そのもの)。VVVF化や冷房化されて独特のベンチレーターも見れないし、台車もパイオニアⅢから換装されているがボディーは誕生以来のもので車体だけは東急最年長で今年50年目を迎える。7000系はデハ7052が東急車輛で永久保存されているが、出来ればこの7910Fを東急電鉄にて動態保存して各地の鉄道で活躍中の7000系の引退時に部品を買い取り登場時の姿に復元保存してもらいたいと思う。東京メトロが長野電鉄の3000系を買い戻して復元保存しているので、これで7000系が復元保存されると日比谷線開通時の乗り入れ車が2車種揃うことにもなるので、是非東急には積極的に検討して欲しいものである。できれば熊本電鉄の5000も買い戻して5000形をちゃんとした形で静態保存をしてもらいたいと願っている。
  1. 2011/06/15(水) 07:10:09|
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東急の事業用車両

日本の鉄道事業者では少なからず事業用の車両を保有している。過日は小田急の事業用車両として総合検測車を紹介したが、今回は東急の事業用車両を紹介する。
東急の事業用車両は3両で、デヤ7200(動力車)+サヤ7590(軌道検測車)+デヤ7290(架線検測車)の構成となっている。7200と7290は検測時以外は、構内入換や長津田工場への入出場車両の牽引時に使用される。なかなかその姿を写真に収めることはできないが、偶然溝の口駅での撮影中に回送で入場車両を迎えに向かう姿を捉える事ができたので、その写真をお目にかける。

デヤ7200とデヤ7290は7200系のアルミ試作車デハ7200+クハ7500を種車として誕生した事業用車両。サヤ7590はステンレスの新製車両。デヤ7200は動力車とすべく両運転台化された。またデヤ7290はデハ7402の電装品を利用して両運転台化電動車化された。デハ7200+クハ7500の晩年は子供の国線専用車両としてこどもの国線独自の装飾を施されて使用されていた。

20110218溝の口 033A溝口駅で大井町線の折り返し留置線横を通過するデヤ7200+デヤ7290

20110218溝の口 038AB渋谷寄りデヤ7200(動力車)を先頭にした編成

20110218溝の口 039A
デヤ7290は架線検測車
  1. 2011/06/12(日) 07:18:43|
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東急の希少車 7600系

東海道線の希少車、湘南色のE217系をご紹介したが、続いて東急の希少車7600系をご紹介したい。
湘南色のE217系はわずか1編成のみという希少車だったが、東急の7600系もわずか2編成という希少車である。東急の7600系は7200系のVVVF化改造で誕生した車両なので純粋な新製車両ではない。鉄道ファンではない一般の人が見るとダイヤモンドカットの先頭車デザインも変わらず側面1枚下降窓という外観デザインが同じことから7600系を見ても、1967年登場の7200系が未だ現役で活躍中のように見えるのではないだろうか。しかし7200系は7600系へ改造された3編成9両を除いてすべて東急の営業路線からは引退してしまっている。
7600系は7200系を改造して1986年3月から営業運転に入っている。Mc+Mcが三編成で合計6両が7600系となり東急全線で使用され、その後遍歴を経て、最終的にMc+M+Tcの三編成9両が7600系として多摩川線と池上線で共通運用され活躍している。三編成の内7601Fと7602Fの中間車Mは先頭車からの改造で運転室だけ取り除いて外観のダイヤモンドカットはそのままで乗務員室扉もそのまま残されており外から見るだけだとMcのように見える。7603F編成の中間車Mは両端共に平妻の純粋な中間車の形で編成的には一番すっきりした編成だった。しかし7000系(第二世代)の増備に伴い2010年3月に引退してしまい今はその姿を見ることはできない。
残っている7600系2編成の7601Fと7602Fは多摩川線と池上線の共通運用で活躍中であるが、そう遠くないうちに7000系に置き換えられる運命なので、オリジナル7200系の面影を残して活躍中の7600系の姿が見れるのも今のうちである。

20080219蒲田 015A2008年2月に蒲田駅で多摩川線運用に就く7603F。この写真だと純粋中間車Mが良くわかると思う。三編成あった7600系の内第三編成の7603Fのみパンタグラフがシングルアームパンタに換装されている。

20080227池上線洗足池 017A
2008年2月に洗足池駅にて池上線運用に就く7602F.

20080227池上線洗足池 018A
7602Fの蒲田側からの撮影。ちょっとわかりつらいかもしれないが中間車連結面寄りに乗務員扉が残っている。

20080227池上線洗足池 022A
2008年2月に洗足池駅にて池上線運用に就く7601F。

20110608蒲田 004
20110608蒲田 002
20110608蒲田 0187601Fの電動中間車Mデハ7681.これで運転台撤去して中間車化されたものの面影は先頭車のままなのが良くわかると思う。
  1. 2011/06/11(土) 11:56:15|
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E217系 湘南色

横須賀線・総武線直通専用であるE217系で在るが、わずか1本だけであるが湘南色に塗られて東海道線で使用されている編成がある。この希少編成にはなかなか東海道線で遭遇するチャンスに恵まれないのであるが、2009年10月の東海道貨物線の迂回運転の折に運良く遭遇してカメラに収めることができた。
スカ色のE217系を見慣れていると湘南色のE217系はなかなか新鮮で、カメラに向かってくる電車の姿を認めた時に新形式が東海道線に就役したのではないかと錯覚してしまうほど衝撃的な出会いだった。
2009年は東海道本線全通120周年にあたる年だったので、撮影したF3+F53編成は「全通120周年記念」のヘッドマークをつけていてなおさら貴重な写真となった。

20091007横浜 017AB雨中の横浜駅へ進入する上り東京行きE217系F53+F3編成

20091007横浜 019A「東海道線全通120周年」のヘッドマーク

20091007横浜 023ABF3基本編成側を見る

E217系は横須賀線用として全編成スカ色で登場したが、2006年の3月から3本が移籍して湘南色になり東海道線でも活躍していた。編成は基本編成のF1~F3と付属編成のF51~F53だった。しかしその後F1~F2とF51~F52の2編成が横須賀線に転籍・復帰して、東海道線にはF3+F53の1編成が残るのみとなってしまった。まさに東海道線の異色E217系である。


  1. 2011/06/10(金) 09:03:51|
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1000人の写真展「わたしのこの一枚」

来る6月11日から15日まで新宿パークタワー・ギャラリー3にて「1000人の写真展」が開催される。

毎年恒例となっており、素人写真家の貴重な作品発表の場となっている。この展示会の特徴は展示ボードを購入すれば誰でも無審査で写真展に参加できることで、私のような写真の腕に自信のない者でもお金さえ払えば参加できるのが大変ありがたい。

主催は「東京写真月間2011」実行委員会・社団法人日本写真協会・東京都写真美術館で、場所は西新宿の新宿パークタワー1階のギャラリー3となっている、

昨年に引き続いての2回目の参加で、下記の写真で応募した。昨年と同じく鉄道を題材にした写真で、2009年秋に東海道本線の貨物線が定期点検・保守で通れない折に迂回運転と称して東海道本線の旅客線を走るという貴重なひとコマである。
東海道本線は東京近郊区間でかなり昔から貨客分離が進んでいて貨物線を平行して走らせていた。複々線の山側を貨物の専用線路としていた。しかし旅客の増加に伴い東海道線を走っていた横須賀線電車を貨物線に移すことになり、貨物列車は別線として東海道貨物線が鶴見から東戸塚間で作られて横浜駅では貨物列車の姿を見る事ができなくなっていた。
しかし、年に何回か東海道貨物線の定期点検・保守があり、その時間帯だけ貨物列車が横浜駅を通るのである。

鉄友のH氏より2009年秋の某日「迂回運転」があるとの情報をいただき、雨模様の横浜駅にて迂回運転の貨物列車が横浜駅の旅客ホームを通過するところを写真に収めたのが今回の応募作品である。

20091007横浜 007BB

今回、もう一つの鉄道の写真とどちらにしょうかと悩んだ。結局より叙情を感じる雨の横浜駅での写真を選んだが、下の引退前の新宿駅で鉄道ファンのカメラに収まるところを捕らえた201系の写真も捨てがたい気持ちがあった。

20091101都電&201 211A2009年11月1日に新宿駅中央線上りホーム(8番線)で発車する201系H4編成上り東京行き電車を二人の鉄ちゃんが撮影しているところをスナップした。
  1. 2011/06/09(木) 18:11:29|
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沖縄<ゆいレール>乗車記

2007年10月初めて沖縄に観光旅行、未知の土地へのわくわく感もありましたが、私の一番の楽しみは沖縄県民の悲願で、戦後復活した沖縄唯一の鉄道となる「モノレール」に試乗できることでした。

移動も入れて3泊4日の旅ではありましたが、家族と一緒で専ら観光地めぐりでした。最終日にレンターカーを空港で返した後出発便の搭乗時間まで数時間あることがわかり、そのわずかな時間を使って那覇空港ー県庁前(5.9Km行程13分)の往復を楽しめましたので、スナップ写真でご紹介をしたいと思います。

2003年10月「沖縄都市モノレール」(通称:ゆいレール)が那覇空港ー首里12.9Kmで開通して、戦前にあった鉄道が廃止されて以来の鉄道の無い県として不遇をかこっていた沖縄に久し振りの鉄道が開通したと聞き、是非訪問をと心待ちにしていた鉄道ファンの私としてはとしては感慨深い沖縄旅行となりました。

那覇空港那覇空港駅に進入する1000系TOPナンバー

跨座式モノレールとしては標準の15mの車体長で2両編成が「ゆいレール」の常態。ATCのワンマン運転方式。前面が丸みを帯びていて愛らしい表情なので、日本の他の都市の機能的なデザインに比べて好ましい。更に運転席の後ろが前向きのロマンスシートで鉄ちゃんには嬉しい設計。
「那覇空港駅」は日本の鉄道最西端の駅という輝かしい称号を得ており、次駅の「赤嶺駅」はなんと日本の鉄道最南端の駅でもある。

旭橋県庁前旭橋ー県庁前間の那覇市繁華街を行くゆいレール

この旭橋ー県庁前間はゆいレールの駅間最短区間(580m)で、駅間最長区間は那覇空港ー赤嶺間(1950m)である。累積赤字に苦しむ「ゆいレール」ですが、私が利用した日は休日ではなく平日の昼間にもかかわらず利用客は多くて、乗車率80%くらいで立ち客が結構いました。
2両編成で10分間隔(ピーク時6分間隔)の運転でしたが、駅舎は3両編成に対応、路線の橋桁は4両編成に対応するように設計されているそうです。

県庁前県庁前駅に美栄橋方面から進入するゆいレール

1101の正面に通称ゆいレールの文字とシンボルマークが見えますが、「ゆい」とは沖縄伝統農業の相互扶助「ゆいまーる」からとった名称だそうです。県庁前駅は文字通り県庁への最寄り駅であるほか、観光客にも有名な「国際通り」へのアクセス駅にもなっていますので、乗降客も沢山いました。

那覇空港B那覇空港駅到着神前の対向列車

那覇空港駅へ到着する寸前のスナップで、駅を出発したばかりの1209とのすれ違い風景です。画面左端に見えるモノレールのコンクリート軌道は車両基地への分岐です。運転席前面の窓上には直射日光を遮る為のブルーのぼかしが入っていて色がおかしく写っております。

結構乗降客が多かったので、このまま順調に推移すればいずれ累積赤字も解消して、路線延伸や2両編成から3両編成の増結など発展していくのではないかと淡い期待を抱かせる訪問でした。


  1. 2011/06/06(月) 22:14:47|
  2. 鉄道
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CLARE HOME&GARDEN 英国式田園生活

東京都日野市に素敵なお店が在る。私達夫婦のお気に入りでお昼を食べに行ったりお茶をしに行ったりしている、今は庭のバラが満開でバラ好きの女房と散策してきた。

お店のカードには以下のようなキャッチフレーズが書かれている

英国式田園生活ーー「クレア」は英国の古き良き時代の品々を扱う輸入雑貨店。カントリーライフを楽しむ様々なアイテムがいっぱい!! 喫茶室で軽食とティータイムがお楽しみいただけます。

CLARE002.jpg

私は仕事で英国に複数回訪問しているが、一番多く泊まったのはロンドンとマンチェスターから少し南に下がったところにあるストークオントレントでそこにある古いホテルが定宿だった。仕事がら車や鉄道で英国内を移動して色んなところへ行ったが、会社が在る町が主体なので、観光地には残念ながら縁がなかった。
客先周りをした途中で寄ったTEA ROOMで食べたスコーンが印象に残っていて、クレアH&Gで頼んで見たが本場の味を偲ばせてくれた。日本でフィッシュアンドチップスを食べたいとは思わないが、勿論クレアH&GではフィッシュアンドチップスはMENUには無い。
ここのランチは我家での評価も高く、味付けが薄味なので女房には大のお気に入り、自家製のパンがサーブされるがパンは御代わりOK。女房はここのレーズンくるみパンが大好きで必ずお土産に買って帰る。
普段は数名の英国人がパンを焼いたり食事をサーブしたりしているが、昨日訪問した時にはいなかったので、確認したら3.11大震災を契機に急遽帰国してしまったとのこと。

このお店の定休日は日曜日と月曜日で在るが、バラの季節である5・6月は日曜日も営業している。このお店の最寄り駅は多摩モノレールの「甲州街道駅」で、駅から歩いて8分くらいの距離。

DSC_2274A.jpg
クレアH&Gの入り口です。ここだけ見ると英国のカントリーのワインディングロードを飛ばしてきてRUNABOUTを少し過ぎたあたりにある田舎のTEA ROOMのように見えるでしょうが、ここは日本です。

DSC_2283A.jpg
「甲州街道駅」から甲州街道を歩いてきて日野警察の先の新奥多摩街道入り口の信号を右折して、20mくらい歩くとこの看板が目に入る筈。

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ここが私達夫婦のお気に入りの場所。メインダイニングルームが玄関入って右手にあるのだが、左手の雑貨類の展示スペースになっている大きなリビングルーム風の部屋にある書斎テーブルが最高のロケーション、許されるなら一日中ここのデスク風テーブルでモーニングティー・アフターヌーンティーを楽しんでいたいほど居心地が良い。
ちなみに紙製のランチョンマットを除いたテーブル上のアイテムはすべて売り物。

DSC_2203A.jpg
雑貨の展示室の一部。左側のテーブルでも喫茶と軽食が撮れる。

DSC_2206A.jpg
暖炉のある生活が夢である私にとっては、憧れのスペース。こんな大きな暖炉の在る家には今後も住むことはないだろうと思う。ちなみに、このクレアH&Gのような家を建てたい方には注文を受け付けていて、府中などで実現した人の例が写真で紹介されている。

DSC_2225A_20110605103626.jpg
DSC_2223A.jpg
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英国流のDIYを楽しんでいる人にはたまらない、英国から直輸入されているペイント缶の棚。ここは2階の展示スペース。

DSC_2264A.jpg
庭園のローズガーデンから見たカントリーハウス。

DSC_2261A.jpg
雰囲気の在るコテージ風物置がおしゃれ。

DSC_2266A_20110605105434.jpg天気が良ければ庭でお茶やランチをすることもできます。

DSC_2252A.jpg池では時々魚(イワナやニジマス)が飛び跳ねる音が・・・・・
  1. 2011/06/05(日) 09:55:03|
  2. 季節
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白洲正子

白洲正子と須賀敦子について書き始めたが、須賀敦子についての文章で長くなり白洲正子について書くことができなくなってしまったので、ここに改めて白洲正子について語ることとする。

私が白洲正子を知るきっかけは、正子の夫である白洲次郎について月刊『太陽』の1998年7月号にて特集を組んだ本を購入したことである。この本で白洲次郎を知り彼が好きになり、彼が生きていていたら今の日本に対してどのような提言をするのだろうと考えたりしている。その後も白洲次郎の事をもって知りたくて白洲次郎について書かれた本はほとんど入手して読んだ。
そして白洲次郎について知識が増えるにつれて、白洲次郎に一目ぼれして結婚した正子夫人のことが気にかかるようになっていった。
月刊『太陽』の1998年7月号で巻頭の「次郎との付き合い」を書いたのが白洲正子である、正子は1998年の12月に亡くなっているので、彼女の絶筆かもしれない。
白洲正子が亡くなった翌年、1999年2月に『ユリイカ』の臨時増刊号で「総特集 白洲正子」が発行されており、2000年2月に河出書房新社から『文藝別冊 総特集 白洲正子』が刊行されている。

白洲正子001A

今や白洲正子は時の人と言っても過言ではないくらいで、先日の世田谷美術館で開催された「白洲正子展」には平日でも沢山の見学客を集めていた。著名度と人気では須賀敦子も残念ながら及ばない。
そんな白洲正子を今更に私が紹介するのも気がひけるのではあるが、何故か彼女について書きたくなるような魅力を秘めた人である。

白洲次郎著『プリンシパルのない日本』は自伝ではないが白洲次郎の言葉のはしはしからは自伝的な要素を見てとれる、そして白洲正子著『白洲正子自伝』は正真正銘の自伝である。
その書のあとがきで白洲正子は云う、
「本文の中で度々述べたように、私は自分の過去についてまったく興味を持っていない。自伝を書くことを長い間しぶっていたのはそのためである。私の一生は、失敗と後悔の連続で、どういう風の吹き回しか、運がよかったために何とか切り抜けてきたが、それだけに平凡で、とりたてて読んで頂くほどの人生経験もない。」

しかし、車谷長吉氏は白洲正子自伝について次のように評している、

「白洲正子は目利きである。ものがよく見える人である。見え過ぎる人である。
・・・・・・(中略)・・・・・・・・
目利きとは何か。あるいは、それはいかなる精神過程を経て醸成されるのか。年来、私の心にはこの謎が謎としてあった。「白洲正子自伝」は、恐らく多くの人の中にあるであろうこの不思議について、白洲正子がみずから語ったものである。いや、白洲正子はそれを語ろうとして、語ったのではない。白洲正子の中に生動する言葉が、それを語ってしまったのである。・・・・・・・・後略」

『ユリイカ2月臨時増刊号』で車谷長吉氏は、白洲正子の出発点は昭和17年発行の『お能』でそれが昭和36年の『能面』で結実して一つの区切りとなったかに思われたが、白洲正子を白洲正子たらしめたのは、能面を求めた旅そのものに焦点をあてて昭和44年から『藝術新潮』に連載された紀行文「かくれ里」であると言う。後にこの紀行文は単行本化されている。そして、その後の『十一面漢音巡礼』や『近江山河抄』などの作品は、いわば『かくれ里』の付録のようなもので、時期を画したというものではないでしょう、と云っている。
  1. 2011/06/02(木) 23:02:01|
  2. 文学
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白洲正子と須賀敦子

白洲正子と須賀敦子、二人共その没後に私が興味を持って著作を読む事になった作家である。
何故か没後に注目を集めている作家でもあることが二人の共通点でもある。
生年は異なるが、二人とも没年は1998年(白洲正子は12月26日、須賀敦子は3月20日逝去)と同じ年である。当然叶うことではないが、二人の健在の時に御会いして直接話を聞く機会がとれればと思わせるところのある作家で、人間的にも非常に興味在る二人である。

白洲正子は1910年(明治43年)、須賀敦子は1929年(昭和4年)の生まれであるが、二人とも海外留学の経験をしている。この時代で海外留学を出来るのは限られた人のみで、非常に貴重な経験をしているし、そのことが二人のその後の生き方に大きく影響していることは間違いないと思う。私も、貴重な海外生活をさせてもらったが、海外で生活をするのは海外旅行や海外出張で海外を経験するのとは大きく異なり、現地人の生活習慣を理解しその文化を理解し実践する術を学ぶ必要がある。その結果、長い海外生活を経て日本に帰国すると、今度は日本に適合できなくなってしまう事が多い。幸い私は4年弱で帰国したのでほとんどリハビリの必要はなかった。

須賀敦子は1953年~1955年の3年間はパリ留学、1958年~1960年の3年間ローマに留学しその後ミラノでイタリア人と結婚して夫と死別後1971年に帰国するまで13年間イタリアに在住していた。これだけ長く海外で暮らしていると日本でのリハビリに苦労したのではないだろうかと思う。一方白洲正子は1924年~1928年まで5年間米国のハイスクールに留学しているが、父親の関係していた銀行の倒産に伴い米国での大学進学を断念して帰国している。4年弱の海外生活は、ほぼ私の米国駐在期間と同じで、私の経験からして日本でのリハビリには苦労はしてないものと想像している。
海外に生活してみて色々とわかったことは多いが、その中の一つに「日本に対する私の姿勢の変化」がある。いい意味での愛国心の芽生えを上げる事ができる。日本の政治家の海外での言動や行動を見て、こう言えば良いのにとかこうすれば誤解を受けないのにとか、日本を援護したくなるのは日本に居た時には持てなかった感情である。
また、源氏物語とか更科日記とか万葉集とか日本の古典をもっと勉強しておけば良かったと思うことも度々あった。ある時にアメリカ人の友人から近松門左衛門の作品の一節を暗記しているのを聞かされて質問を受けた時には
自分の不勉強を恥じると共に、例え一駐在員であるとしても瞬時に日本代表として応対しなくてはならない場面があることも知って私の不明を反省させられた。

恐らく白洲正子も須賀敦子も似たような経験をしているのではないかと不遜にも思う。もちろん二人共に私とはレベルの違う教養を身に着けて海外に出ているので、もっと高次元での経験で在るとは思うが・・・・

今まで二人の共通点を上げてきたが、むしろ二人の違いの方が大きく多いかもしれない。単純化して言うと、白洲正子が「動」の人であるとしたら、須賀敦子は「静」の人と言えるのではないか。須賀敦子は上智大学の教授として長く教鞭を執られているが、慶応義塾大学・京都大学・東京大学・聖心女子大学等でも講師として教壇に立ち学生からは素晴らしい教育者として尊敬をされている。作家である前に教育者でもあった須賀敦子は二つの顔を持つのである。同じく白洲正子も、作家であると共に染色工芸店「こうげい」の経営者という顔や能の免許皆伝の演者という顔も持っているのが作品に現れているように思う。

河出書房新社より「KAWADE夢ムック・文藝別冊」シリーズで、1998年11月『追悼特集 須賀敦子』が、2000年2月『総特集 白洲正子』が発行されている。

『追悼特集 須賀敦子』での中の追悼文で、吉本ばななが次のように須賀敦子を語っている。

豊かで、力強く、品があり、激しさを秘め、静かに深みをたたえている。そういう美しい旋律のような文章を書く事ができる稀なひとでした。

私の貧弱な表現力を持ってしては無理な須賀敦子の人となりを、吉本ばななは見事に表現してくれている。

そして、私ではうまく表現できない須賀敦子の作品については、池澤夏樹が以下のようにうまく表現している。

最初のご著書である『ミラノ 霧の風景』が世に出てから、まだ10年もたっておりません。イタリアという国、そこに暮らす日々、人々のものの考え方や気持ちの表し方を生き生きと、正確に、ふっくらと書いた文章にぼくたちは感動し、この卓越した書き手の突然の登場に驚いたことを覚えています。
しかもこの本は卑近な些事にばかり終始しがちな現代の日本人に世界の広さと人間の精神の普遍性を教える作品であり、日本文学の礎石の一つとなる傑作でありました。

そして、この『追悼 須賀敦子』には新発見資料として「こうちゃん」「ウンガレッティの詩法の研究」「ペンナ訳詩篇」の三作と、単行本未収録として「となり町の山車のように」「エマウス・ワーク・キャンプ」「霧のむこうに住みたい」「ヴァレリー」の四作が収録されている。ミラノ在住時代に発行されたという『どんぐりのたわごと7号』から掲出された「こうちゃん」はひらがなの多い子供の絵本のような書き出しで一瞬そのような作品を想像したのですが、内容は大人の為の寓話という作品でした。『ミラノ 霧の風景』などの一連のエッセイを通して須賀敦子を知った私にとって、彼女がこのような作品を残していた事に軽い驚きを感じると共に彼女の隠れた才能を見つけた喜びも感じさせてくれました。

文が長くなってきたのでこの辺で止めにしておきます。

どうも須賀敦子の書き込みで終わってしまった感がありますが、白洲正子についてはまた稿を改めて続けたいと思います。
  1. 2011/06/02(木) 00:08:30|
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nighttrain999

Author:nighttrain999
目黒区の都立大学で産湯を使い、長じて多摩ニュータウンに移り住んでン十年の”おじさん”です。サラリーマン渡世を無事に勤め上げて第二の人生を謳歌しております。
多彩な趣味のお陰で時間が足りなくて、とても仕事をしている暇がないという次第。
興味のあるものは: 鉄道・車・オーディオ・カメラ・地図・文学・歴史・音楽(特にJAZZ)・英国

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