《鉄道》《車》《音楽》《文学》等にまつわるよしなしごとを、つれづれなるままに書き連ねてまいります。 このBLOGに掲載された写真などを他のMediaなどに掲載される際の問い合わせ先はn.sugii@nifty.comです。
恒例のクラッシックカーの祭典「JCCA New Year Meeting」に行ってきた。今年のコンクールデレガンスの対象車はドイツ車とフランス車だった。展示車の比率はドイツ車8割フランス車2割、そしてドイツ車の8割がメルツエデスベンツというかなり偏った内容の展示であった。コンクールの入賞車は以下の4台だった。
大賞:メルツェデスベンツ280SL
入賞:メルツェデスベンツ170S
:シトロエンDS21
:オペル・レコルト1900クーペ


大賞を取ったメルツェデスベンツ280SL

入賞のメルツェデスベンツ170S

入賞のオペル・レコルト1900クーペ


入賞のシトロエンDS21
- 2013/01/27(日) 23:09:42|
- 車
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昭和の鉄道世界(その16)は初期のオールステンレスカーの一つである京王・井の頭線の3000系の登場まもなくの姿をとらえた昭和38年秋に撮影した写真をご紹介する。3000系の第一編成は昭和37年12月に、第二編成は昭和38年の10月に竣工・入線している。第一編成と第二編成は4両編成(後にデハ3100形を加えて5両編成になっている)で登場、片開き3扉で車体幅は2700mmで第三編成以降の両開き3扉車体幅2800mmと異なる。

明大前駅の3000系第二編成渋谷行き。登場まもない頃の写真なので4両編成でパイオニアⅢ型の台車を履いている。

開放的な昔の渋谷駅に停車中の3000系第二編成。行き先表示器の書体に注目いただきたい、この頃の書体は格調高いこのような書体で東急ファンだった私は京王ファンの友人から書体を自慢されて悔しい思いをしたのを思い出した。


3000系第二編成の運転台写真である。マスコンのハンドルにご注目ください、当時の流行のデッドマン仕様になっています。
- 2013/01/27(日) 08:43:04|
- 昭和の鉄道世界
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もし、岡倉天心が居なかったらこんなにも多くの仏像を拝観することはできなかったことを勉強させられた。
明治維新政府は、文明開化の波に乗り西洋文化の吸収による富国強兵を推進すると共に、天皇制を利用した治国を行った。その為に「廃仏毀釈」という乱暴な運動が横行して、多くの寺院や仏像が存亡の危機に晒される結果となった。奈良の興福寺の五重塔が当時のお金で5両(現在の貨幣価値で2万円相当)で売りに出された話がそのことを象徴する有名な話として伝わっているが、実際に廃寺になってしまったり、マキの代わりになって燃やされた仏像もあったようだ。そんな状況に危機感を抱いた文部省官吏の岡倉天心は、文部大臣に直接意見書を出して1897年(明治30年)に「古社寺保存法」が成立した。また岡倉天心は日本美術院第二部を奈良の東大寺に設置して、仏像2000体以上を修復・保存した。
岡倉天心は明治維新の少し前の1962年に横浜で生まれて、外国貿易で発展した横浜では英語が必須と考えた父は、子供の時から英語を天心に教えることにした。そのお陰で天心は5歳の時にはほとんどネイティブと同じくらいに英語がしゃべれた。天心は12歳で東京開成学校(今の東大)に入学して、17歳(明治13年)で卒業して文部省へ入省して官僚になっている。その後、1887年(明治20年)の東京美術学校(今の芸大)の創立メンバーとなり27歳で校長に就任したが、西洋美術よりも日本の美術工芸を推進した為に36歳の時に校長職を追放された。追放後すぐの1898年(明治39年)日本美術院を立上げたが運営に失敗して、失意の中茨城県五浦に移住して充電期間を過ごした。五浦の充電期間でパワーを得て、天心は日本美術院本部を五浦に移設して活動を再開して、前述の日本美術院第二部の創設などを経て、仏教美術の修復に邁進した。
天心は東京開成学校で、人生を決定づける人物と出会っている。それはアメリカ人の哲学者アーネストFフェノロサ、伝統美術の調査を始めたフェノロサはその通訳に天心を選んだ。フェノロサに随行して奈良や京都の寺を巡った天心は、そこで初めて仏像と出会い、その魅力の虜となった。天心の残した調査日誌『奈良古社寺調査手録』(明治19年)には、法隆寺の夢殿で長年秘仏として公開されてなかった救世観音を文化財調査の為に初めて開けさせた時の感激を、「我が人生に於ける最快事であった」と述べている。また天心は東京美術学校の講義で「歴史の勉強をしないものは必ず滅びる。ただし後ろを向いてはダメだ、前を向いて自分の足で進め」と言っている。
歴史を勉強して、新しい時代に自分で歩き出せと言うことである。
実は岡倉天心の東京美術学校時代の写真はちょっと馴染めない服装で写っていて不思議だったが、その疑問が解けた。天心が着ていたのは、奈良時代の官僚の服装だったのである。奈良時代は律令制を感性させ、奈良の大仏を造って国家仏教のピークの時代であった。その時代の服を着ることによって、明治というのは新しい古代の復活なんだという事を姿であらわしたのである。
天心の講義は仏教美術から始まる、人間とはなんぞやみたいな高度な思想は仏教と一緒にやってきた。そういう素晴らしい人間の生き方を教えてくれる人がいて、それが仏像になる。初めて人間の理想の生き方を教えてくれた人の姿(お釈迦様)を拝む事になる。天心が言う美術は理想や憧れ、その象徴が仏像だった。
- 2013/01/25(金) 11:39:53|
- 歴史
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昭和の鉄道世界(その15)は昭和46年(1971年)3月に南海電鉄・天下茶屋駅での撮影した写真を紹介したい。この時は大学の鉄道研究会の関西遠征で南海に立ち寄っており、今は無き「阪神国道線」「京都市電」「神戸市電」「和歌山電気軌道」「播但線の通勤蒸気列車」「井笠鉄道」などもカメラに収めており、それらの写真も順次公開して行きたいと思っている。関西には魅力的な私鉄が多くて、それらの車両達に会いに行くのも楽しみの一つである。近年そのカラースキームが変わってきており、筆者としては非常に残念なのだが、南海と京阪の緑の濃淡の塗り分けは私の好きな塗色で、関西の鉄道訪問時には南海と京阪は必ず訪問している。

今は無き南海・天王寺支線(天下茶屋~天王寺)の運用に就いている1201系。天王寺線は1984年11月に天下茶屋~今池町間が廃止になり、1993年4月に残りの今池町~天王寺間も廃止になり消滅して今は無い。
筆者が訪問にした昭和46年3月時点では戦前に18m級2扉の標準車として登場して幅広く使われていた1201系が天王寺線で活躍中だった。その後1201系は貴志川線に集結して貴志川線専用として運用された。

天下茶屋駅へ進入する南海・高野線の20m級通勤4扉のオールステンレスカー6001系。1962年がその製造初年度であるが、更新改造はされているもののほほ製造当初の姿のまま40年以上使われている稀有な車両。東急車輛製造製のオールステンレスカーとしては東急の7000系、京王の3000系に次ぐ第三弾ということになる。後に改造されて正面おでこに方向幕の窓が開けられたが、この時はオリジナルのままで行先方向板(南海独自の列車種別と行先が併記されている方向板)が掲げられているのがわかる。

天下茶屋駅へ進入する南海本線の急行11001系。南海本線初の高性能車(特急・急行用2扉・クロスシート)として1954年にデビューしたのが11001系。こちらの11001系は全て廃車となり南海線上でその姿を見ることはできない。11001系の一部は京福電鉄福井支社(現在のえちぜん鉄道)に譲渡されされていたが、2003年までに全車廃車・解体されており、南海の11001系は全てその姿を消している。
- 2013/01/24(木) 12:19:35|
- 昭和の鉄道世界
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昭和の鉄道世界(その14)も引き続き昭和38年(1963年)のネガからの写真である。1962年(昭和37年)10月に青梅鉄道公園がオープンして鉄道好き学友たちと訪れている。その折に青梅駅で撮影した青梅線の電車の写真が今回ご紹介する写真である。青梅線の電車はつい最近まで201系であったが、その前は103系・101系でオレンジバーミリオンの塗装がなされていた。しかしそれ以前は旧性能電車と呼ばれたクモハ40・72系のいわゆるブドウ色の電車が走っていた。1976年に青梅線にも103系が運行開始され、1978年3月にクモハ40・72系のさよなら運転が行われている。

立川寄りから見た青梅駅構内。


五日市線の電車も青梅線と共通運用なので「五日市」の行先表示板を付けたクモハ73形。

奥多摩寄りから見た青梅駅
- 2013/01/22(火) 11:04:44|
- 昭和の鉄道世界
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今や駅弁はスーパーやデパートでの特販の目玉で頻繁に出会う機会が多い。私にとって駅弁は、汽車旅行では欠かすことの出来ないアイテムの一つである。それも長距離列車の窓を開けて停車駅で駅弁売りのおじさんから買うのが定石である。しかし、窓の開かない列車の列車の隆盛により、駅弁は車内販売または駅構内の売店で買うのが常態になってしまた。従って途中駅にある有名駅弁を味わえる可能性が大いに少なくなってしまった。乗車駅での駅弁でお茶を濁すか。車内販売の限られた選択の中から我慢するしかない。そんな日頃の駅弁ファンのストレスを解消してくれる催しが、京王新宿店の元祖有名駅弁展である。
今では他のデパートやスーパーでもこの手の催しものを二匹目のどじょう狙いで開催しているが、京王デパートが最初に始めた事は間違いない。筆者も実際に現地に行かなくても有名駅弁が手に入るこの催しに乗って初期の頃は足繁く通ってお気に入りの駅弁をゲットして悦に入っていた。いつのまにか興味が薄れて足が遠ざかってしまった。
不思議なもので遠ざかっていた有名駅弁大会が、昨日新宿に出かけていた折に京王新宿店で開催されており、つい足を踏み入れてしまった。色々と種類の多い駅弁を眺めて品定めしていて、ふと昔食べてた味が懐かしくて小田原か静岡の「鯛めし」が欲しくなり探したが見つからなかった。しかたなく「さば寿司」にしようかと探していて見つけたのが長崎平野屋の大村寿司「焼きさば寿司」。
第六感というやつで、いぶすことで生臭さを消して甘さを引き出すのではと期待したとおりのうまさで、このチョイスは大正解だった。

- 2013/01/21(月) 11:20:49|
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昭和の鉄道世界(その13)は、引き続き昭和38年(1963年)東海道本線の列車をご紹介する。撮影場所は戸塚ー東戸塚間。昭和39年(1964年)10月に東海道新幹線が開通しているので、東海道本線最後の成熟期であった。151系の特急電車が、「第1・2こだま」、「第1・2つばめ」、「第1・2冨士」、「はと」、「おおとり」で東海道を上下していたし、「六甲」・「いこま」・「なにわ」・「せっつ」・「よど」等の153系の大坂方面行きの急行群があった。未だ湘南電車と横須賀線は分離されず同じ線路を走っていたが、貨物線は分離されて複々線であった。貨物列車の先頭に立つ牽引機はEH10やEF60だった。

EH10を先頭に東海道貨物線を行く下り貨物。

1958年に汽車会社で2両だけ作られたステンレスカー試作車サロ153の900番台。手前のサロ153は普通鋼の1等車(1963年は未だグリーン車ではなかった)

153系の急行「なにわ」 先頭は高運転台のクハ153の500番台。

東海道上り線を行くEF5869の単機回送。

EF60に牽かれて東海道貨物線を下る貨物列車。

中京地区の修学旅行電車159系の間合い利用の臨時準急「ながら」(東京ー大垣)

横須賀線の3扉セミクロスシートの旧型国電42系。

EF58牽引の上り旅客列車。

貨物線を下る試運転電車。当時は大井工場の出場車の試運転は東海道貨物線を使用していたので貨物線を走る国電は珍しくなかった。

ブリジストンの横浜工場付近を行く151系特急。今は無きパーラーカー(クロ151)が見える。
客車特急「つばめ」・「はと」の電車特急化に際して展望車に変わる車両として誕生したパーラーカーは側面の大きな展望窓が特徴で、運転室のすぐ後ろの大きな窓(1920x925mm)が4人用の区分室と呼ばれた専用個室。それに続く大きな窓(1920x925mm)3個と小窓(955x925)1個が並ぶエリアが開放室と呼ばれて1人掛けの椅子7席が2列に並んでいた。

撮影場所不明であるが、同じネガの中の写真なので昭和38年の光景であることは間違いない。ヨに挟まれた回送中とおぼしきキハ10形気動車(キハ1061)。当時茅ヶ崎の相模線管理所にはキハ1061が配置されていたのでこれの全検の為の回送ではないかと推察。
- 2013/01/13(日) 22:52:30|
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美術館に併設されているレストランには結構評判の良いレストランが多い、ここ世田谷美術館に併設されているフレンチレストラン”ル・ダルジャン”もその一つで味には定評がある。しかし我家での評価は☆三つで、普通の評価である。温野菜とテーブルクロスがランチタイムでも布なのとサービスは高い評価であったが、その他は普通で可もなく不可もなくの評価である。

オードブル

かぼちゃのスープ




- 2013/01/13(日) 15:06:22|
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世田谷区の砧公園に位置する「世田谷美術館」は、こじんまりとしたとても素敵な美術館で、私の好きな美術館の一つになっている。棟続きにあるフレンチレストラン”LE JARDIN”も素敵なところで美味しいフレンチが楽しめることも私の世田谷美術館びいきにつながっている。例によって美術館の展示会会場内は撮影禁止なので美術館の展示場以外の場所の写真を紹介する。





松本峻介の絵は自画像の「立てる像」と「Y市の橋」しか見てないし、それも写真でみたのみであったが、今回は初めて実物をじっくり鑑賞する事ができた。「立てる像は」予想を上回る大作で、松本峻介の立っている姿はほぼ実物大といっても良い大きさで、見るものを圧倒する力があった。初期の作品の中に印象に残る作品が多かった。街と人:モンタージュと題して集められた作品群に共通なのは、色んな情景や人が違った縮尺で配置されて、現実感のない光景として描かれていることと、人物の描写でも足が複数で動きを感じさせたり、透明で現世の人ではないように見えたり、デフォルメされている姿に見る者に想像力を働かせるような仕掛けがあるのが面白いと思った。



- 2013/01/13(日) 09:53:19|
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昭和の鉄道世界(その12)は昭和38年横浜・戸塚あたりで撮影した写真をご紹介する。

相模鉄道の2500系。相鉄横浜駅付近にて。

横浜駅で昭和38年に撮影した上り特急「あさかぜ」。昭和38年からブルートレインの牽引機がEF58からEF60の500番台に変わり始めたが、まだ過渡期なのか上り特急「あさかぜ」の牽引機はEF58だった。

戸塚駅を通過する上り特急「さくら」。「あさかぜ」と同じく牽引機はEF58.

「さくら」の電源車はパンタグラフを載せたカニ22形。登場して数年で、車両運用上の制約からパンタグラフと電動発電機が撤去されているので、パンタグラフを付けている写真は貴重かもしれない。

上り特急「はやぶさ」の電源車カニ22形。昭和38年の時点でパンタグラフを撤去されたカニ22は登場後すぐに撤去されたカニ2251しかないので、この写真はカニ2251だと思う。

戸塚駅を通過する上り特急「みずほ」。こちらの牽引機はすでにEF58からEF60の500番台になっている。

戸塚駅を通過する157系の上り特急「ひびき」。
- 2013/01/10(木) 10:30:10|
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戦時の東京を生き、戦後間もない1948年に36歳で早世した画家、松本竣介の大規模な 回顧展「生誕100年 松本竣介展」が全国を巡回中だ。少年期から亡くなる1カ月前まで の油彩画約120点と資料などを出品.
葉山美術館を皮切りに全国巡回中で、今は東京の世田谷美術館で1月14日まで開催されている。松本俊介を知ったのは洲之内徹氏の著作『気まぐれ美術館』で松本竣介の自画像を紹介しているのを見てである。その独特な筆致の自画像に感銘を受けて、私の中に松本竣介の名前が強く刻み込まれたのを覚えている。


松本竣介の代表作のひとつである、「自画像」と「Y市の橋」、「Y市の橋」は構図を変えて何点か描かれている。Y市とは横浜市のことで、この絵の場所は横浜駅西口を東京側に少し行ったところの橋で今でも現存する。東海道線の線路は絵にはないがその線路を渡る跨線橋が抽象的な筆致で左側に描かれている。
松本竣介の詩の一部を下記に引用する;
絵筆をかついでとぼとぼと
荒野の中をさまよえば
初めて知った野の中に
天に続いた道がある
自分の心に独りごとをいいながら
松本竣介は雑誌『みずゑ』(昭和16年1月号)の座談会「国防国家と美術ー書家は何をなすべきかー」で陸軍省の少佐の以下のような発言に反論をしている。
亡国的な絵が非常に多い。この国家荒廃の時にのんきに構えておいては困る。時局にふさわしい思想感情を表現して国家機能を担当しなければならむ。言うことをきかなければ、絵の具とカンバスは配給をとめてしまう。
上記のような発言を受けてほとんどの画家は国家の要請に合った戦争画を描いたが、一人松本竣介だけは風景画を書き続けた。そして昭和16年4月号の雑誌『みづゑ』に次のような反論を載せて世間を驚かせた。
今沈黙することは賢いけれど、今沈黙する事がすべてにおいて正しいのではないと信じる。芸術家としての表現行為はその作者の腹の底に染みこんだ肉体化されたもののみに限り、それ以外は表現不可能という厳然とした事実を度外視することはできないのである。
私たち若い画家が困難な生活環境の中にいて、制作を中止しないということは人間としての生成を意味している。
今の私が同じような境遇におかれていて、彼と同じような発言ができるかというと大いに疑問である。
だからと言うわけではないが、松本竣介という男に本当に畏敬の念を持たざるを得ない。
最後に、若くして世を去った松本竣介の言葉を引用してこの稿を終わることとしたい。
真実と美のためには一切のことに耐えよ
仕事を守る事がそのすべてである
明確に描け
詩情はその上に自ずから出てくるものでなければならぬ
永遠的なものの中に
人間の喜怒哀楽を定置させること
- 2013/01/07(月) 10:53:45|
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久し振りに「昭和の鉄道世界」をお送りする。昭和44年(1969年)8月の札幌駅での写真である。当時は札幌駅は地上駅の時代で、0番線ホームで定山渓鉄道乗り入れの気動車をカメラに収めている。定山渓鉄道は昭和44年の11月に廃止になっているので、廃止3ヶ月前の写真という事になる。廃止は11月であるが、定鉄の気動車による国鉄札幌駅乗り入れ廃止は、それより1ヶ月早い10月1日なのでまさに貴重なショットという事になる。定鉄は電化されていて電車が使われているのだが、乗り入れる国鉄千歳線が非電化の為に乗り入れ用としてキハ7000形3両ととキハ7500形1両を製造して乗り入れを行った、
電鉄会社が乗りれ用に気動車を作る例としては、小田急電鉄の御殿場線乗り入れ用や名鉄の高山線乗り入れ用や南海電鉄の紀勢線乗り入れ用にその例を見る事ができたが、今はそれらすべて過去のものとなっている。

札幌駅0番線ホームに停車中の定山渓鉄道キハ7501

国鉄気動車と併結されている定鉄気動車。バラエティに富んだ編成で、先頭の国鉄気動車は、客車(オハフ62形)改造の異端児気動車キハ092(旧キハ45形→キハ09形)
- 2013/01/06(日) 08:50:04|
- 昭和の鉄道世界
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新年あけましておめでとうございます。
旧年中は「ナイトトレインの平成・徒然草」をご愛読いただきありがとうございました。今年も鉄道ネタを中心につれづれなるままに日暮らしパソコンに向かって書き狂ってまいりますので、弊ブログを宜しく御願いいたします。
元旦なので近所の諏訪神社に初詣に行ってまいりました。道すがら東京の百景ににも取り上げられている富士山のよく見える丘で元日の朝日に輝く富士山を撮って参りましたので、お目にかけることと致します。
1富士・2鷹・3なすびと言うように、大変縁起の良い秀峰富士山をお目にかけることで皆様へも縁起のお裾分けをしたいと思います。

- 2013/01/01(火) 10:05:49|
- 季節
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プロフィール
Author:nighttrain999
目黒区の都立大学で産湯を使い、長じて多摩ニュータウンに移り住んでン十年の”おじさん”です。サラリーマン渡世を無事に勤め上げて第二の人生を謳歌しております。
多彩な趣味のお陰で時間が足りなくて、とても仕事をしている暇がないという次第。
興味のあるものは: 鉄道・車・オーディオ・カメラ・地図・文学・歴史・音楽(特にJAZZ)・英国
画像使用の問い合わせ先:n.sugii@nifty.com
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