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ナイトトレインの平成・徒然草 ~心にうつるよしなしごとを書き連ねて~

《鉄道》《車》《音楽》《文学》等にまつわるよしなしごとを、つれづれなるままに書き連ねてまいります。 このBLOGに掲載された写真などを他のMediaなどに掲載される際の問い合わせ先はn.sugii@nifty.comです。 

昭和の遺構(1) 多摩川スピードウェイ観客席跡

「昭和の遺構」と題して遠くなりつつある昭和の香りを今に伝える昭和の遺構を紹介していくシリーズである。
その第1回目は、昭和11年(1936年)に作られた日本初の常設自動車レース場の遺構の紹介である。
東横線で上り電車に乗ると新丸子駅を発車してまもなく多摩川の鉄橋を渡るが、その時上流側の河原の土手に階段状の構築物があるのに気づかれた方も多いのではないだろうか。なにげなく見過ごしてしまっているかも知れないが、これが今回ご紹介する日本初の常設自動車レース場の観客席の遺構である。
DSC_1866A.jpg

日本での自動車レースは意外にも早くて明治時代に始まっていたが、大正年間に活発化して競馬場や埋立地などを使って開催されていたもののレース場は雨が降ると泥沼と化して使えず、常設の舗装をされたレース場の必要を感じて金子恒雄氏(自動車レースの後援をしていた報知新聞企画部)と藤本軍次氏が東京横浜電鉄(現在の東急)が多摩川河川敷に所有するオリンピア球場跡地(オリンピア→東映フライヤーズ→日本ハムファイターズ)に目をつけて、東京横浜電鉄を口説いて昭和11年に完成させたのが「多摩川スピードウェイ」だった。長径450m、短径260m、幅20m、1周1200mのコースだった。河川敷のために本格的な舗装が出来ず簡易舗装だったと言われているが諸説あり、ダートコースだったと記している書物もある。しかし競馬場のダートコースよりは舗装に近い状態だった筈で、そうでなければ競馬場のダートコースや埋立地での間借りを逃れて本格常設自動車コースを作った意図と合わないことになる。
「多摩川スピードウェイ」の開設時期についても諸説あり、昭和18年発行の『東京横浜電鉄沿革史』と昭和48年発行の『オートレース20年史』では昭和10年(1935年)の開設と在る。ちなみに東京横浜電鉄は建設資金総額10万円の内7万円を出資したそうである。ただ『東京横浜電鉄沿革史』には総工費8万円と記載されており費用分担の記述は無い。『東京急行電鉄50年史』(1972年発行)には多摩スピードウェイの記述が一切ないので不明点の解消はできてない。東急は沿線への学校の誘致や娯楽施設(遊園地や田園コロシアムなど)の経営や誘致に熱心で、慶應義塾の日吉誘致で地価が上がり乗車人員も増えて経営に大いに役立っているので、多摩スピードウェイに投資することは想像に難くない。
多摩スピードウェイでは、昭和11年6月7日に第1回全日本自動車競走大会が開催されて、本田技研創業者の本田宗一郎氏が弟弁二郎氏と一緒に参加しておりスピードはだんとつだったそうだが、後半のステージで前方の立ち往生した車に接触して転覆して優勝を逃している。その後も自動車レースは昭和14年(1939年)まで6回開催され、オートバイレースなども行われたが第二次世界大戦の影響でレースは行われなくなり、オートバイの草レースなどが続けられた後、戦後ほどなく閉鎖された。

多摩スピードウェイの跡地は、もともとの野球場に戻り日本ハム2軍の施設として使われた後に普通に野球場として使用されている。当時の記述には収容人数3万人のスタンドとあるが、遺構を見ても3万人は無理で数千人が良いところだと思う。3万人という数字の算出根拠はオーバルコースを囲む草地での立ち見席も含んでの総数であろうと筆者は見ている。
長径450mをカバーする長さのスタンド席が土手に作られており、コンクリートの段が11段ありその下にコンクリのスロープがあり、各段と斜面に穴がありそこにイスが設置されていあt模様。閉鎖後しばらくの間はイス席が残って場違いな景観を呈していたとの報告もあるのだが、現在がイスは残っておらず土台となったコンクリートの階段とスロープの構築物が残るのみである。良く観察するとイスが乗っていたと思われる穴が等間隔で残っているのでそれと知ることができるのみである。

DSC_1819A.jpg
対岸の多摩川駅側から東急東横線・目黒線の鉄橋越しに眺めた多摩スピードウェイの観覧席跡。電車の後ろにほぼ画面いっぱいに左から右へ伸びている土手の斜面の灰色に見える部分が観覧席跡。結構長い距離である。

20110520多摩川雪谷大塚 004A
上記と同じところから撮った写真で、これは望遠で拡大してみた写真。観覧席らしく見えることと思う。

DSC_1856A.jpg
今はなきレーストラックがあった思われる位置から観覧席を見上げた写真。階段状の部分とその下のコンクリート斜面にはイスを設置した穴の跡があるが、それ以外の部分にはイスはなく多分土や草の上に座って観覧したのではないだろうか。

DSC_1857A.jpg
コンクリートの斜面に等間隔で草が顔を出しているのは、昔のイスを設置した時の穴の跡。

DSC_1859A.jpg
階段状の部分に残るイスの穴の跡。ここで70年以上前に本田宗一郎兄弟の出走したレースを眺めた人々がいて、その歓声が響いていたのかと思うと感慨深いものがある。

DSC_1862A.jpg
左側の幅の狭い段数の多い部分が通路として使われた階段部分で、右側の広い段数の少ない部分がイスを設置した観覧席部分と推察している。

DSC_1878A.jpg
右側の階段部分は観覧席の中央部分にあって他の階段より幅が広い。ここがメインスタンド部分だったのだろう。
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  1. 2011/05/22(日) 09:05:30|
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Author:nighttrain999
目黒区の都立大学で産湯を使い、長じて多摩ニュータウンに移り住んでン十年の”おじさん”です。サラリーマン渡世を無事に勤め上げて第二の人生を謳歌しております。
多彩な趣味のお陰で時間が足りなくて、とても仕事をしている暇がないという次第。
興味のあるものは: 鉄道・車・オーディオ・カメラ・地図・文学・歴史・音楽(特にJAZZ)・英国
画像使用の問い合わせ先:n.sugii@nifty.com

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