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ナイトトレインの平成・徒然草 ~心にうつるよしなしごとを書き連ねて~

《鉄道》《車》《音楽》《文学》等にまつわるよしなしごとを、つれづれなるままに書き連ねてまいります。 このBLOGに掲載された写真などを他のMediaなどに掲載される際の問い合わせ先はn.sugii@nifty.comです。 

岡倉天心と仏教美術

もし、岡倉天心が居なかったらこんなにも多くの仏像を拝観することはできなかったことを勉強させられた。
明治維新政府は、文明開化の波に乗り西洋文化の吸収による富国強兵を推進すると共に、天皇制を利用した治国を行った。その為に「廃仏毀釈」という乱暴な運動が横行して、多くの寺院や仏像が存亡の危機に晒される結果となった。奈良の興福寺の五重塔が当時のお金で5両(現在の貨幣価値で2万円相当)で売りに出された話がそのことを象徴する有名な話として伝わっているが、実際に廃寺になってしまったり、マキの代わりになって燃やされた仏像もあったようだ。そんな状況に危機感を抱いた文部省官吏の岡倉天心は、文部大臣に直接意見書を出して1897年(明治30年)に「古社寺保存法」が成立した。また岡倉天心は日本美術院第二部を奈良の東大寺に設置して、仏像2000体以上を修復・保存した。
岡倉天心は明治維新の少し前の1962年に横浜で生まれて、外国貿易で発展した横浜では英語が必須と考えた父は、子供の時から英語を天心に教えることにした。そのお陰で天心は5歳の時にはほとんどネイティブと同じくらいに英語がしゃべれた。天心は12歳で東京開成学校(今の東大)に入学して、17歳(明治13年)で卒業して文部省へ入省して官僚になっている。その後、1887年(明治20年)の東京美術学校(今の芸大)の創立メンバーとなり27歳で校長に就任したが、西洋美術よりも日本の美術工芸を推進した為に36歳の時に校長職を追放された。追放後すぐの1898年(明治39年)日本美術院を立上げたが運営に失敗して、失意の中茨城県五浦に移住して充電期間を過ごした。五浦の充電期間でパワーを得て、天心は日本美術院本部を五浦に移設して活動を再開して、前述の日本美術院第二部の創設などを経て、仏教美術の修復に邁進した。
天心は東京開成学校で、人生を決定づける人物と出会っている。それはアメリカ人の哲学者アーネストFフェノロサ、伝統美術の調査を始めたフェノロサはその通訳に天心を選んだ。フェノロサに随行して奈良や京都の寺を巡った天心は、そこで初めて仏像と出会い、その魅力の虜となった。天心の残した調査日誌『奈良古社寺調査手録』(明治19年)には、法隆寺の夢殿で長年秘仏として公開されてなかった救世観音を文化財調査の為に初めて開けさせた時の感激を、「我が人生に於ける最快事であった」と述べている。また天心は東京美術学校の講義で「歴史の勉強をしないものは必ず滅びる。ただし後ろを向いてはダメだ、前を向いて自分の足で進め」と言っている。
歴史を勉強して、新しい時代に自分で歩き出せと言うことである。
実は岡倉天心の東京美術学校時代の写真はちょっと馴染めない服装で写っていて不思議だったが、その疑問が解けた。天心が着ていたのは、奈良時代の官僚の服装だったのである。奈良時代は律令制を感性させ、奈良の大仏を造って国家仏教のピークの時代であった。その時代の服を着ることによって、明治というのは新しい古代の復活なんだという事を姿であらわしたのである。
天心の講義は仏教美術から始まる、人間とはなんぞやみたいな高度な思想は仏教と一緒にやってきた。そういう素晴らしい人間の生き方を教えてくれる人がいて、それが仏像になる。初めて人間の理想の生き方を教えてくれた人の姿(お釈迦様)を拝む事になる。天心が言う美術は理想や憧れ、その象徴が仏像だった。
  1. 2013/01/25(金) 11:39:53|
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旧東京音楽学校奏楽堂

明治23年に創設された旧東京音楽学校奏楽堂は、老朽化の為に東京藝術大学・奏楽堂が新設された折の昭和59年に解体されて、昭和62年に台東区の手で隣接の上野の森の一画に移築されている。日本最古の木造様式音楽ホールということで、昭和63年1月に国の重要文化財に指定された。
ホールは演奏会などの催し物が無い時には一般公開されているが、平成25年4月からは建物の耐震調査などの為に閉館となり一般の見学や演奏会などの貸し出しも停止となる。筆者が訪れた日はたまたま演奏会が催されていて一般見学ができなかったので、来年4月の一時閉館前に再訪して見学したいと思っている。
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  1. 2012/11/12(月) 10:30:32|
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尊厳の藝術展 

東京藝術大学美術館で開催されている「尊厳の藝術展」に行ってきた。2010年11月NHK「クローズアップ現代」は、ワシントンにあるスミソニアンアメリカン美術館で開催されていた展覧会「The Art of Gaman(がまん)」を紹介した。番組では、遺族などの証言をもとに、強制収容所の日系アメリカ人たちが作品を作り上げた思いに迫り、放送後、日本での展覧会開催を望む声が多く寄せられた。この展覧会の開催は、こうした視聴者の意見に応える形で実現したものである。

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展覧会の開催されている「東京藝術大学美術館」
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11月3日から12月9日までの約1ヶ月間の開催。

日本での展示会の監修をされた東京藝術大学教授の薩摩雅登の「本展について」を下記に引用します。

 この展覧会タイトルから皆様はどのような内容を想像されるでしょうか。ここに展示される作品は、ほとんどが大家の作品でもありませんし、贅沢な材料で作られたものでもありません。これらは、第二次大戦中に強制収用された日系アメリカ人たちが、収容所での厳しい生活環境の中で、道具から材料に至るまで創意工夫をこらしながら、精魂込めて作り上げた品々なのです。
 我が国は世界に誇れる素晴らしい技術を持っていました。一例をあげれば、戦国大名が覇権を競った時代に、種子島に伝わった鉄砲を国産化して量産できるだけの潜在的な力がすでにあったのです。そのような技術は平穏な江戸時代にさらに発展して、明治時代の殖産興業や第二次世界大戦後の驚異的な復興を支えた下町の職人たちに受け継がれました。また、日本画や伝統工芸品などにも洗練された技術が継承されています。しかし今、そのよき伝統に陰りが出てきています。
 豊かな時代の中で便利な道具機器に恵まれた私たちは、東日本を襲った大震災を経験して、高度文明の意外な脆さを知らされました。我らの同胞が70年前に、厳しい生活の中で、粗末な素材から手作りで生み出したこれらの「心のこもった」作品は、現代の私たちが忘れかけている何かを伝えてくれているように思います。

ーーー引用終了ーーー

私はこの展覧会を見終わって、まさに薩摩教授の言う最後のことば「心のこもった作品は、現代の私たちが忘れかけている何かを伝えてくれているように思います」を実感しました。鳥のブローチの足の材料に困って、自分達を囲っている有刺鉄線の余りの鉄線を利用したことを作品の解説で知り、苦労して調達した材料で作られた作品はどれも素晴らしい完成度で、芸術品であると私は確信した。私も含めて、今の恵まれた時代に甘えてしまっていることを自覚する人なら是非ともこの展覧会に足を運んで欲しいと思う。

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  1. 2012/11/10(土) 20:16:02|
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千代田区立日比谷図書文化館

日比谷公園内にあるもう一つの施設が千代田区立日比谷図書文化館である。2009年までは東京都立日比谷図書館で筆者の学生時代には大変お世話になった。歴史は古く明治時代から東京市立日比谷図書館として利用されてきたが空襲で全焼して現在の建物として再建されたのは1957年である。上から眺めると三角形の不思議な形をした図書館であるが筆者には大変居心地の良い図書館で、調べ物や勉強の為に随分と通ったものだった。
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正面入り口側から建物を見るとビルが鋭角になっていて三角形のビルであることがわかる。
  1. 2012/10/30(火) 23:32:51|
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市政会館と日比谷公会堂


日比谷公会堂は、私が初めてクラッシクコンサートを聴いたホールである。それまではレコードでクラッシク音楽を聴いていたが、生のオーケストラの演奏を聴いてそのダイナミックレンジの広い迫力ある音に圧倒されたのを覚えている。今でもその時の床を伝わってくる重低音の響が体に残っている。当時のステレオ雑誌で自宅でこの生のオーケストラを再現する装置の話が載っていたが、この生の音の低音や高音は再現不可能だと当時はおもったものだった。
過日「日比谷公園」に行く用事があった際に、久し振りに日比谷公会堂を見たくなり寄ってきた。その時になんと日比谷公会堂は単独の施設ではなくて市政会館と一緒の複合施設だったことを発見して驚いた。

以下は、施設に掲げられていた建物の説明文である。

大正9年に東京市長に就任後、東京市政のための中正独立の調査機関設置を構想した後藤新平は、大正11年に東京市政調査会を設立して自ら会長となった。後藤は、安田財閥・安田善次郎の寄付を受け、日比谷公園内に公会堂を付置した会館を建設し、会館は調査会が使用し、公会堂は東京市の管理に委ねることとした。これが、現在の市政会館と日比谷公会堂である。
建物は、著名な建築家8名による指名設計競技の結果一等に当選した佐藤功一の設計のもとに、本格的なホールを備えたわが国最初の施設として、昭和4年に竣工した。全体が茶褐色のタイルで覆われたネオ・ゴシック様式で、建物中央に時計塔がそびえたつ。1部の窓に使われた黄色テラコッタが、垂直性を強調したデザインにアクセントをつけている。

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公園の森越しに見た日比谷公会堂。わずかに時計塔が顔を覗かせている。
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右半分が公会堂で左半分が市政会館。
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日比谷公会堂は階段を上がって入るようになっている。
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市政会館側の正面入り口。
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公会堂の入り口は2階だが、1階には喫茶食堂があり昭和初期の雰囲気がただようたたずまいだった。今回は他に目的があったので立寄れなかったが、次の機会には立寄って見たいと思っている。

  1. 2012/10/30(火) 10:00:25|
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プロフィール

nighttrain999

Author:nighttrain999
目黒区の都立大学で産湯を使い、長じて多摩ニュータウンに移り住んでン十年の”おじさん”です。サラリーマン渡世を無事に勤め上げて第二の人生を謳歌しております。
多彩な趣味のお陰で時間が足りなくて、とても仕事をしている暇がないという次第。
興味のあるものは: 鉄道・車・オーディオ・カメラ・地図・文学・歴史・音楽(特にJAZZ)・英国
画像使用の問い合わせ先:n.sugii@nifty.com

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